初期機関誌から

「文学と教育」第18号
1960年12月20日発行
 文教研大阪グループの抱負 
多 田   晋
田 中 満 夫
荒 川 有 史



  当面の課題

 多田  私たち大阪グループは、ごくさいきん発足したばかりのほやほやですが、さしあたっての課題は何でしょう?
 田中  まあ、東京グループの実践上・理論上の成果をどのようにしてうけとめ、消化していくか、ということですね。
 荒川  理論水準ではちっとやそっとで追いつけないが、私たちの行動力のよさをフルに生かしていきたいですね。国語教育運動に役立つ面がすこしでもあるなら、気楽にポイと飛びだそうという構えだけは失いたくないと思っています。
 田中  それに、準会員の層の厚さが、遠からず人数の面では、東京グループを追いぬくだろうという見通しを与えてくれますよ。
 多田  人数の面ではね。ところで、現在、文教研は二本立て、三本立ての運営をやっていますね。この点、どう思いますか。
 荒川  現在ではやむをえない、という感じです。第一に、文教研独自の例会、第二に、大教組国語分科会の連絡、第三に、府高内部での国語サークル、といくつにも重なっているでしょう? でも、学習指導要領方式が現場に浸透している今日では、それを教科の面からはねかえしていく必要があるんで、できる範囲でやっていきたいですね。
 田中  文教研独自の仕事といえば、現場の実践をくみあげて理論化していくことと、国語教育の基礎理論ともいうべき言語学・文芸学の追究を平行して地道にやっていく、ということになるんじゃないですか。
 荒川 さいきん、誰にもできる国語教育、誰にもできる文学教育ということばがとくに強調されてきていますね。このことばは、はじめは、教育実践の技術化をよびかけたものです。ところが、どうも現在はちがうらしいのです。一部の評論家が小むずかしい文学教育理論をとなえるから、文学の教室実践も衰える一方だという批判ないし非難のかげにかくれて、もっぱら身体の静養にのみふける人たちもふえてきています。しかし、『生活教育』七月号で熊谷孝先生がふれておられたように、自動車の運転免許状をとるばあいでも、車体の構造やら、交通法規を勉強しなくてはいけない。同様に、魂の技師と言われる国語教師が、ことばや文学のはたらきやしくみを知らないことには、まっとうな授業ができないのではなかろうか。というのが私たちに共通する実感であり、考え方である、ということになりますね。
 多田  こうした理論のつみ重ねをおしししめていく仕事は、同時に散在している府下の良心的な国語教師が一つに結集していく道につながって行く、と思いますよ。
 荒川  口伝てに、府下の教室実践のすばらしさを耳にするのですが、それが一般化され、共通の財産として府下に行きわたっていない。……
 田中  そういうすぐれた実践を発掘し、整理していくことで、私たち文教研が、多少でも蜜蜂のような役目を果たせたら、と思いますね。


  研究活動をささえるもの

 多田  大阪グループのメンバーは、三人とも組合の役員をやっていますね。
 田中 荒木文相のような方が教育行政を重ねて担当される時代だけに、仕事はあとからあとから押し寄せてきますね。
 多田  しかし、組合活動をやっているから勉強のほうはできない、といった泣き言だけは決していうまい、というのが私たちのひそやかな決意でもあるんだが……
 田中  その点は、たしかにそうですよ。だから私たちは、府立高校や小・中・高と含めた大教組の教研集会に参加し、連絡や運営にあたっているということにもなりますよ。
 荒川  教研集会は、年ごとに盛大になってきておりますが、前年度の成果をこえたところで問題が追求される、というところまで行っていないようですね。国語のばあいで考えますと、たとえば第八次のように、「思考力をのばす」という学習指導要領のよい面はとり入れ、“君が代”復活に見られるようなニュー・ルックの“国粋主義”は批判するという是々非々主義をどううけとめ、どう発展させていったらいいのか……。すくなくとも私たちは、文部省の指導要領方式に足をすくわれないような、正確な国語教育の基本路線を、組織をとおして設定していきたいですね。
 田中  大阪には、小・中・高それぞれに、官製の国語教育の研究団体がありますよね。私たち青年教師の多くは、おじいちゃんたちのやっている会はつまらないや、という形で、今まで参加しようとしなかったでしょう。この点問題がありますよね。
 多田 こうした団体に参加している方々も、やはり私たちと同じ生徒に接触しておられるわけですよ。プラス・マイナス・ゼロとなるような行動様式をどっかできりくずしていきたいものですね。
 田中  たとえば、大阪府高等学校国語研究会では、東京でおこなわれた全日本国語教育協議会の参加報告を中心に、高校の改訂学習指導要領が検討されましたね。こうしたこころみのなかで、非人間的な文教政策をきりくずしていくことが私たち現場人の一人一人に課せられているということ、さいきん、とくに痛感しますな。
 多田  まあ、今までいろんな抱負を話しあってきたんですが、それを実現していくにあたって有利な条件はなんでしょうか。
 田中  大教組の指導体制が、学閥・派閥にとらわれていない点ですね。何々理論と銘うったものにまどわされず、人々の心をとらええた理論のみがその指導権を確立できること……
 荒川  が、この有利な条件は、一面真剣な研究活動の組織を欠いていることと見あっていますよ。ですから、学問的な探求が甘やかされることにもなりますし、自己の整理が正しいかどうか、謙虚に反省するところが少ないことにもつながりますね。
 田中  とくに、高校のばあい、教科に対する裏返しのかたちでの自信がある。
 多田  そこで、成熟の論理を無視して、一方交通の授業がおこなわれることにもなりますな。
 荒川  それともうひとつ。現場教師が、卒業後、学問を忘れてサラリーマン化している傾向にあるとういことですね。
 多田  教育労働を、つい職業としてのみわりきりすぎているんですよ。
 荒川  大阪商人の朝のあいさつは、“モウカリマッカ”というのでしょう? その精神、その根性が、魂の技師ともいうべき教育労働者の胸にしみこんできている、という感じですな。
 田中 そのため、賃金値上げなど生活面でのたたかいは、ある程度強くくむことはできるんだから。
 荒川 その“ある程度”ということが問題やな。
 田中  あくまでカッコづきですけどね。専門職の側面では弱いけれども、生活面での奇妙な根強さ……組合の指導体制はこの根強さを逆利用して、たたかいをくんできたのですが、それにもたれすぎて、イデオロギー面での訓練に、ひじょうに欠けるところがあった、とは言えますね。
 多田  私たちの“抱負”を実現していくにあたっての、条件は右のとおりというところですか。私たちは、マイナスの条件には泣き言をいわず、それをプラスにつくりかえていくために、大阪町人のねばり強さでやっていきたいと思いますよ。サークルのエゴイズムはおさえながら。

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