初期機関誌から

「文学と教育」第15号
1960年4月発行
 集団の自己紹介  鈴木 勝 

 私たちの《文学教育研究者集団》は、一九六〇年二月二六日に出発した。が、その母胎は、すでに五八年の夏に出来上っていた。
 勤務評定・道徳教育実施要綱・改定学習指導要領等々の一連の文教政策が次々とうちだされた時期においてである。私たちは、《サークル・文学と教育の会》に結集し、次のしごとを設定した。
 ――「とくに、学校教育の面において文学教育がおしゆがめられようとしている、こんにち、私たちは、まず《国語教育のなかに文学教育を明確に位置づける》ことから、仕事をはじめていきたい。当面の課題をそこに求めて学習活動をつづけると同時に、一方では、たえず、学校教育のワクを越えたところで活動をおし進めることで、《明日の民族文学創造の基盤》を確かなものにしよう、と考えるのでる。」
 ――「サークル・文学と教育の会は、よりよい文学教育の実践をめざした《文学と教育の学習》のための集いである。他のサークルとの交流や、文書その他による対外的な活動も、先に予想している。」
 私たちが最初にとりあげた仕事は、改定学習指導要領(国語科)への批判である。改定が国民的自覚という視点からとりあげられているにもかかわらず、それが国粋主義につながるものであること、発達段階に即した系統性といっても人間を固定した角度から生物学主義的にとらえる基準にしかすぎないこと、したがって、こうした視点、こうした論理のもとでは、文学教育は片すみへ追いやられ、人間形成・人間変革といういとなみは完全に無視されてしまうこと、等々が真剣に検討された。
 指導要領批判をきっかけとして、“国語教育の機能的本質と役割”“国語教育としての文学教育”“道徳教育と文学教育”“古典教育の視点”などのテーマで、《国語教育のなかに文学教育を明確に位置づける》仕事を追求しつづけた。また、文科と科学におけるそれぞれの認識表現の機能にまでわけいって教育のあり方を反省した。
 この活動の成果は、その都度、十四号まで発行された、ガリ版刷りの機関誌“文学と教育”に発表された。さらに、文学教育の会理論部会、全国青年教師連絡協議会文学教育部会、日本生活教育連盟国語教育部会などにサークルとして参加し、多数のナカマとの話しあいのなかで、わたしたちの理論を普遍化することに努力した。それらの参加報告は、「文学教育」「カリキュラム」「生活教育」「広場」に、あるいは『講座 文学教育』『生活教育の基礎と課題 第八集』に、正確にまとめられている。
 これらの報告に一貫していることは、文学研究の水準が文学教育の実践を豊かにもし、ひからびたものにもするという姿勢であろう。サークルを構成するメンバーの一人一人が利害をはなれて研究し実践したことが、サークルのこの姿勢を保障したと考えられる。
 が、さいきん、私たちは、自分たちの「純粋さ」について、深刻な、私たちの全存在をゆさぶられるような、疑問を感ずるにいたった。
 私たちは、文学教育運動の統一のために、文学教育の会に積極的に参加していたのであるが、講座刊行以後の質的な発展を期待して、一九六〇年三月に、“文学教育と芸術的認識”のテーマのもとに、文学教育研究集会をもつことを提案した。サークルの共同提案は、常任委員会・集会準備委員会によるさまざまな修正をふくみながらも、今年の一月末には可決された。ところが、私たち自身に行動性というか、機動力を欠いていたことと、(私たちの側にもあったところの)非生産的な感情とがあいまって、せっかくのこのプランを流産させてしまった。
 さらに、流産の共同責任を分かち合うべき常任委員会では、「初めから、こんなプランは実現させるつもりはなかった。言葉として賛成はしたけれど、だから適当に掻き回したり、いなしたりしてサボタージュしていたわけだ」という、聞き捨てならない侮辱的な言辞をさえ浴びせられた。
 その瞬間、私たちはこの会に見切りをつけた。というより、こうした人々と行動を共にして会を盛りたてていく自信を、そこに求めえなかった。
 そして、この敗北の体験を、いかにもしてプラスに転化させたいと考えた。マイナスをプラスに転化する手がかりを、“ナカマとの体験の交換・交流”という、この四月集会に求めた。
   文学教育研究者集団
 これが、私たちの新しい出発に対して、みずから与えた名まえである。

 ――「文学を愛し、文学教育を大切にしていこうとしておられる方々に、一人でも多く参加していただき、広くご意見をいただくことを願ってやみません。」(集会案内より)

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