初期機関誌から

「文学と教育」第15号
1960年4月発行
 戦後文学教育小史――資料によるスケッチ――  荒川有史 

 「文学教育の歴史は、同時に文学教育運動の歴史である。@
 運動のもつ矛盾とその展開が新しい理論の創造を要求し、新しい理論が運動の質的な発展を保証する。
 こんにち、文学教育運動は一つの曲り角へさしかかっている。文部省の改訂指導要領が示しているように、文学教育が国語科の片隅へ追いやられ、孤立し死滅する方向へあゆんでいくか、あるいは批判精神を堅持して人間疎外の状況をうちやぶる方向へ進んでいくか、その分岐点にたっている。
 文学教育を教育の世界から事実上抹殺しようとする黒い動きは、ところで、いつ、どこで、だれの手によってはぐくまれてきたのであろうか。文学教育は子どもの認識の発展、子どもの世界観形成に欠くことができないとする主張・運動と、いつ、どこで、どうきりむすび、どう対決してきたのであろうか。
 戦後の文学教育史のアウト・ラインを検討することで、こんにちの課題に問題解決の照明をなげかけてくれるものを二、三とりだしてみたいとおもう。
 『講座 文学教育』のなかで、熊谷孝氏は、戦後の文学教育史を三つの時点から解明しておられる。A すなわち、
  (1) 児童文化雑誌『子どもの広場』の創刊(一九四六年四月)前後
  (2) 日本文学協会・一九五二年度大会(一九五二年六月)前後
  (3) 文学教育の会成立(一九五二年六月)前後
である。さらにその時点にかさなりあう展開として、
  (1) 児童文学者を中心とした、文学教育の提唱と実践の時期(一九四六〜五一年)
  (2) 学習指導要領ラインの、上からの文学教育・国語教育(そのコスモポリタニズム・プラグマティズム)への抵抗を底流とする、学校文学教育の研究・実践の時期(一九五一、五二年〜)
  (3) 文学教育関係者の大同団結による、対立の統一が意図された時期(一九五七年〜)
の三つの時期を指摘しておられる。
 たしかに、文学教育の会の成立は、文学教育をおしすすめようとする人たちの大同団結を象徴するものであった。けれども、「個々人のさまざまな良心的努力」にもかかわらず、真の統一はまだ実現されていない。B
 『講座 文学教育』は、文学教育運動のこんにちの姿を正直に告白したといえる。そこでは、多様で相反する主張がバラバラに投げだされている。相互批判と自己反省による論理のかみあわせがすくなく、最大公約数的な整理が有効な収穫として提出されているにすぎない。二、三の力作は、会の成果というより個人の努力によっている。
 このすきに乗じて、「文学教育をおしゆがめてしまおうとする力C」がますます勢を得てきている。わたくしたちは、いま、第四の時点に立っているとさえいえよう。
 「文学教育運動をおしゆがめてしまおうとする力」は、しかし、戦後の第一の時点では、じつにひかえめな姿勢をとっていた。一方では教育勅語失効が国会で確認され、他方では再軍備への第一歩がふみだされるという複雑な矛盾をかかえこんだ時点で、指導要領はあくまで一つの参考意見にすぎない、と強調された。日教組は政治闘争に終始して、教科の論理の確立は第二義的であった。D 文教闘争の有効な組織化こそ、実は政治闘争の終局の勝利をするという論理に欠けていた。
 当事者群(?)に共通するこの一見傍観者めいた姿勢から、よく文学教育運動の空白が結論されがちである。しかし、この時期に、文学教育運動は児童文学運動とともに出発したのである。E つまり、「児童文学者協会(一九四六年三月創刊)に結集し、上記『子どもの広場』のささえとなったような、一連の民主的な児童文学者や文化人たち」F が、現場の主張を代弁するところから出発したのである。だから、それは、学校文学教育にたいする外側からの発言にとどまらなかった。その発言は教室にもちかえられ、ひからびた教材のかわりに子どもたちに提供された。ジャーナリズムの脚光をあびることのない地道ないとなみが、逆コースの進行にともない、上からの文学教育圧殺に抵抗する基盤をつくりあげた、といえよう。G
 不幸なことに、戦後の進歩的な児童雑誌はスクスクとそだつことができなかった。大人の視点でとらえた童心と、現実の子どもの心情とには大きなへだたりがあった。読者である子どもたちの感情とずれあたところで問題がなげかけられた。占領軍を解放軍と見あやまった誤びゅうの投影がそこに見られる。H
 進歩的な児童雑誌の敗退を契機として、民間の文学教育運動は一歩後退の方向をたどる。これに反し、五〇年以降の暗い政治的危機の段階には、文学教育をも一小部分として含みこむ言語教育の提唱が強くなされるようになった。たとえば、西尾氏は、 
 ――「いままでの国語教育は、文学教育であった。少なくとも、文学教育でありすぎた。それをわれわれの日常における、話し・聞き・書き・読む言語生活教育にする」ことの必要を強調された。I
 また、時枝氏は、
 ――「日常の言語生活ということと、文学を主体とする文学言語の生活とは……平行の関係においてその教育が進められなければならない」
 ――「文学教育は、書物を読む方法と能力を養う言語教育とは別のものではないJ
と語っておられる。
 右の発言より大分時期がさかのぼるのであるが、進歩的な教育評論家国分一太郎氏でさえ、文部省編『国語』の教材批判から横すべりして、結果において、文学教育不要論をとなえる状態であった。K すなわち、
 ――「言語や文字が、いちばん、ふくざつに、高度に、総合的に、芸術的に、センレンされてつかわれたカタチが、文学の形であるという考えかたからすれば、“文学作品”も、国語教科書のあるページをしめることはゆるされるだろう。けれども、それは、ほんの一部でなければならない。」
というのである。
 こうした機運に重なって、一時ひかえめな姿勢をとっていた指導要領が、ふたたび自己を主張しはじめる。民族の子の魂をはぐくむ文学教育は、読み方のごく一小部分に閉じこめられようとした。
 第二期の文学教育運動は、右に見たような言語生活教育への批判から展開する。とくに日本文学協会ラインの活動が見のがせない。ただ残念なことは、戦後児文協ラインによってきずかれた理論的遺産が、発展の線上においてうけつがれなかった点である。第一期には低姿勢であった批判の対象が、第二期には明確な姿をあらわすが、戦後の異なった時期に同一の対象を相手どることで、間接の継承がなされたにすぎない。それぞれの会が、自己を主張し訴えることで精いっぱいであったという事情と関係があろう。L
 理論的遺産の継承という点で一種の断絶があったにもかかわらず、言語生活教育批判が教育の現場で成功しえた秘密は、「第一期における文学教育運動や、その教室実践による基盤の開拓を前提M」としてのみ理解できる。「それは、たんに小・中学校の文学学習面についてだけ、いえることではない。また同時に、高校その他における実践部面においても指摘されることなのである。第一期における小学生は、第二期の段階においては中学生・高校生に成長している。この第一期の文学教育運動にはぐくまれた小学生が、である。第三期における文学教育の実践活動が、まず高校の分野において盛りあがりを示したというのも、あながち偶然ではなかったように思われるのである。N
 こうした歴史的事情を背景に、まず益田勝実氏による言語生活教育への批判がある。「話す・聴く・読む・書くの言語教育を、考え・感じとり・新しい精神文化を創り出す、新しい人間形成の教育に延長しそれが新しい文学教育へつらなることを期待するO」というのが氏の批判の要点である。筆者として異議をさし挟みたい点もあるが、その意図はくみとれるかと思う。益田氏の問題提起を、鴻巣良雄氏は、さらに発展させて要約している。
 ――「言語と思考がいつでも相関関係をもっているように、文学教育も言語教育との関係においてとらえ、しかもそのうえで、独自のはたらきを追求していこうとするP
 同様の結論が、“国分・石田論争”を要約した水野氏の見解にもみられることは注目していい。
 なお、日文協がすぐれた問題提起から幾多の整理をなしえたのであるが、言語生活教育を主張する西尾理論と同居の形をとらざるをえなかったことと、小・中学校現場の体験を十分に理論化できなかったことなどにより、一つの限界にとどまらざるをえなかった。

〈資料〉
  (1) 熊谷 孝『戦後の文学教育』講座文学教育U
  (2) 同右
  (3) 文学教育研究者集団『文学教育集会案内』
  (4) 同右
  (5) 熊谷 孝『文学教育』
  (6) 熊谷 孝『戦後の文学教育』
  (7) 同右
  (8) 同右
  (9) 同右
(10)  西尾 実『言語教育と文学教育』
(11)  時枝誠記『国語教育と文学教育』
(12)  国分一太郎『詩について』
(13)  熊谷 孝『戦後の文学教育』
(14)  同右
(15)  同右
(16)  益田勝実『文学教育の問題点』
(17)  鴻巣良雄『文学教育の再発見』


HOME「文学と教育」第15号初期機関誌から機関誌「文学と教育」