初期機関誌から

「文学と教育」第15号
1960年4月発行
 教育課程の自主編成  川合 章 

  一、 戦後教育の展開と教師の組織的責任

 敗戦後の上からの教育民主化政策に対して、これを批判的に克服しようとする組織的な努力が欠如していたこと、そのことが今日の教育界の混乱の一つの原因になっていることを、教育課程の自主編成をおしすすめようとするとき、まず謙虚に考える必要がある。教師の教育内容に対する組織的責任は、教育内容の質のあり方と、その質を実現するための教師集団、とくに職場のあり方にあらわれる。教育研究の自主体制を作ることは、自主編成の前提であるがそれだけでは自主編成とはいえない。大衆の発展に責任をおう教育内容の吟味が必要である。


  二、 教育内容の吟味

 教育内容は、やや図式的にいえば、三つの視点から吟味される必要があろう。それが人間生活の発展にとって基礎的であるか、それが子どもの論理的、芸術的発展を保証するものであるか、それが子どもの現在の物の見方、感じ方、その背後にある子どもの生活構造をつき破るものとして適当であるかどうか。第一の視点を貫くためには、人間労働の絶対性の確立(人間としての力の発展)とそれを可能にする生産性の発展とを軸として検討される必要がある。第二、第三の視点を貫くためには、例えば科学教科の場合、教材のもつ論理構造(科学の研究方法論とその立場と成果としての知識との構造)と運動体としての子どもの生活構造(子どもなりの矛盾をもった論理構造としての把握)とをつきあわせ、実践的に追求することが必要になろう。


  三、 自主編成の手続

 自主編成は、教育課程のプラン作りではない、日教組などで指導要領を作ることではないという点が指摘され、自主的教育体制の確立という点が強調されてきた。しかし、プランを作ってはいけないはずはない。むしろ、それぞれの教科の専門分野の最高の成果を最大限に生かすために、もっと積極的に教科の専門家などから、仮説的な提案がなげかけられることが必要ではないか。そして、すでに一定の教育内容にしたがって実践をすすめている教師の実践の綿密な吟味とかみあわされていくことによって、自主編成はすすめられるべきであろう。そのさい、すでにふれた、国民に責任をおう教師の職場作りという観点を欠くなら、それは一片の紙切れになり下ってしまうであろう。


川合 章氏
 「にこやかな聞き手」として速断すると大変なことになる。
 教史研の主要メンバーとして、学会でも意義のある「近代教育史」に公教育の本質を追求されていたかと思えば、最も痛烈な改訂指導要領の批判者として国民教育運動にみずから推進体となっていられる。
 あるときはよろず相談にものって下さる気安さが衆望を集め、妙子夫人と秋田おばこを歌って下さったのは印象的。
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