初期機関誌から

「文学と教育」第15号
1960年4月発行
 改訂指導要領の文学観  荒川有史 鈴木 勝 

 改訂指導要領にたいする批判は、その発表後、さまざまな場でさまざまな角度からなされてきました。しかし、それらの批判は、指導要領のワク組をすっぽり肯定したうえでの、部分的な、表面的な修正に終っているようです。
 たとえば、国語教育を、「聞くこと、話すこと、読むこと、書くことの学習」の四領域から成りたつと規定しますと、文学の学習はその四つのうちの「読むこと」のなかに限定されてしまいます。そのうえ、伊藤整氏がいうように、現存の秩序を否定しよりよき未来への展望を明示するという文学特有の機能は完全に無視されてしまいます。みにくい現実には目をつむり、あたえられた秩序のなかで生きていく人間、そういう人間に慰さみとなるような教養としてのみ、文学はその生存権を許されているようです。このワクのなかだけで、思考力をどのように伸ばすか論じてみてもあまり意味はないと考えます。
 また、すでに多くの人が指摘しているように、読み物は、文学作品に片よってはいけないが、古典には関心をもたせるように、という指示などに、根本的な疑問を感じます。
 古典は文学としてではなく、教訓のために、つまり道徳教育の素材として活用せよ、というわけでありましょう。それはさらに、“君が代”の復活と見あう国民的自覚、ニュールックの国粋主義を核心とする国民的自覚の尊重へとつながっていくのでありましょう。
 人間変革とはなんらふれあうところのない国民的自覚。それに奉仕することを要求されている国語教育。これが改訂指導要領の基本線です。ですから人間のしあわせをねがい、人間を無気力と停滞からときはなす文学教育が、要領の国語教育に正当な位置を与えられていないのも当然なことかもしれません。
 実践面での計画設計にも、古い文学感覚と照応する児童観がハバをきかせております。ここに登場してくる児童生徒は、全国共通の顔をもっており、一年ごとに、同一歩調で成長していきます。成長の方向もあらかじめ決定されているのです。それぞれの社会における人間関係や家庭環境のゆがみが、全国的にも年齢的にもはなはだしい落差をうみだしていることを捨象し、予定調和の机上プランを提出しているわけであります。
 弁証法的な思考による以外、この複雑な現場を処理できないはずなのに、たとえば、英語の原級、比較級、最上級といった作文上の表現だけで処理された指導プランが、はたしてどんな役に立つというのでしょうか。
 こうしたさまざまな不合理を根底から是正するためにも、指導要領の文学観の批判をとおして、国語教育のなかに文学教育を明確に位置づけていきたいと考えます。読解ブームとよばれる奇妙な現象も、その地点で同時に批判できるのではないかと考えます。

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