初期機関誌から

「文学と教育」第15号
1960年4月発行
 「赤い鳥」前後  関 英雄 

  一、 「赤い鳥」創刊を準備した時代の動き

 明治四十三年、二十八歳の小川未明の処女童話集『赤い船』の発刊から、大正七年「赤い鳥」創刊までの時期は、日本の近代児童文学の夜あけを準備した時期である。この時期の児童文学は、巖谷小波のおとぎばなしの教訓と、有本芳水の少年詩の感傷が多くの少年少女に影響を与えていた。「赤い鳥」以後の近代主義的な児童文学観では、小波や芳水を文学的に低く評価することにとどまりがちだが、小波や芳水が思想閉塞の時代の空気の中で、児童の感情解放に果した役割は評価されなくてはならない。この時期『赤い船』を前哨として、大正二年実業之日本社から出た『愛子叢書』(島崎藤村、徳田秋声らの少年文学)、大正五年の雑誌「良友」の創刊など、新児童文学の芽生えの動きはあったが、見るべき作品は少い。小川未明、鈴木三重吉らの小説作家が、現実逃避的なロマンチシズムにおもむいた時代的必然性の中で、第一次大戦による経済好況と、教育、文化面での市民的デモクラシーの思潮――自由と個性を尊重する市民的児童観の台頭――がこれら作家のロマンチシズムを、新しい市民的児童文学としての童話、童謡へとおもむかせるための内面的準備の時代として、この時期を見るべきであろう。


  二、 「赤い鳥」創刊による新たな主流の形成

 「赤い鳥」に次いで「金の船」(大正八)、「おとぎの世界」(大正八)、「童話」(大正九)の創刊により、昭和初頭までつづく童話、童謡文学の黄金時代が来た。未明、三重吉のほかに北原白秋、西条八十、野口雨情らの詩人、また浜田広介、千葉省三ら当初から専門童話作家として出発した人々が、この時期の児童文学に指導的な役割と多くの作品を残した。これらの人々の作風、詩風の違いにもかかわらず、この形成された新たな主流は、「童心主義」「童心文学」の名に概括される児童観と文学傾向――文学傾向はロマンチシズムと感傷主義――を有した。それは等しく、作家の内部の童心(児童性)への郷愁と讃仰の情緒に色づけられたものである。多くの文壇作家がこの時期に児童文学に参加して、中には芥川龍之介の説話文学のように童心主義の影響外の作品もあったが、有島武郎の「一房のぶどう」「溺れかかった兄妹」などには、童心主義といわぬまでも少年期への望郷の情趣がひそんでいた。それはやはり、時代の主流的思潮の中にあったものといえる。
 現在の時点から、大正、昭和初期の童心文学への否定面にウェイトをかけた作品評価が行われやすいが、――少年期の自己発見からの近代児童文学への出発という、童心文学発生の根拠には必然性がある。問題はそこで何が準備され、生み出され、発展し、またほろびて行ったかということだ。ここで史的評価と現代的評価を重ね合わせての、個々の作家と作品の検討こそ重要となる。

  三、 第一次「赤い鳥」の果した役割と、児童文学創造に於ける近代リアリズムへの道

  (この章 略)
  
 〔(この章 略)は原文のまま〕


関 英雄氏
 児童文学の評論家は数少ないが、関さんはその貴重な数の中の一人。しかも、本来は作家なのだから、その強みは鬼に金棒。作家としては、その昔、千葉省三主催の雑誌「童話」の作品募集の「少年の部」に入選しているのだから、ずいぶん長い。児童文学暦三十数年というべきか。代表作「北国の家」「おばけものがたり」「山の絵」その他の創作集のほか、評論集『児童文学論』がある。日本児童文学者協会常任理事――というよりも、その発会の産婆役であり、育ての親。
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