初期機関誌から
「文学と教育」第15号 1960年4月発行 |
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教科書と文学 岡本良雄 | |
作家が作品を書く時は、それが、ひとりひとりの読者に読まれることを考えながら作品を書いていく。たとえ、その作品がベストセラーズになったとしても、読まれる時は、ひとりひとりに読まれるのである。逆にいって作家は、ひとりの読者にむかって話しかけ、呼びかけながら、原稿用紙をうめていく。 だから、その作品が、教科書にのって四十人なり、五十人なりの一教室全体の児童に一律に与えられるというのは、どんなものであろうか。 私は、文学作品を教材に使った場合、読者である児童から、一律の「ご名答」を期待していないし、また期待してはならないと思う。当然、てんでんばらばらな解釈が出て来べきだし、そのような解釈をひきだすのが文学教師の役目ではなかろうか。そこに文学教育のむつかしさもあり、おもしろみもあるのであろうと考える。 教室とは縁遠いシロウトの考えだから、そんなものではないと叱られるかも知れないが、それならそれで、また、研究集会の日の話しあいのたのしみがふえようというものであるし、ただ、まさか、それでは採点しにくくて困るというような方だけはいらっしゃるまいと安心はしているが――。 また、このほかに、作家が作品を書く場合は、できるだけ個性的な表現をしようとするものだが、これが、教科書の文章のできるだけ普ヘン的な表現をとろうとしているらしい意図とは、完全に正面衝突をする。個性的とはどんなことかという問題もあるし、普ヘン的とはどんなことかという問題も、もちろん、ある。教科書の文章と、文学作品の文章というようなことも、当日の話題にしてみたい。
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