初期機関誌から
「文学と教育」第15号 1960年4月発行 |
文学教育は子どもの認識をどう育てるか 熊谷 孝 |
1.学習指導要領と文学教育 文学教育のいとなみを、たんに情操陶冶の手段として考えるとき、それは国語教育にとって第二義的なものとならざるをえません。 第二義的なもの……つまり、付属品です。アクセサリーです。 しかし、アクセサリーもまた一種、生活の必需品であるという意味で、それは珍重され、同様にしょせんはツケタリにすぎないとい意味で貶められます。ともあれ、「経験を広め心情を豊かにする」情操教育としての文学学習は、国語教育にとってアクセサリー以外(あるいは以上)のものではありません。 そういうつかみ方、おさえ方をするものですから、学習指導要領では、文学教育を文学教育としてではなく、たんに文学学習としてしか考えておりません。 いいかえれば、それは、数多くの国語学習領域のなかの一領域――いや、さらにその領域のなかの従属的な一小部分にすぎないというわけです。本筋において、それは文学教育の否定にほかなりません。というのは、文学教育がそれ自身、一まとまりの体系をもった教育活動であることが、そこでは否定されていることになるのですから。 2.国語教育の課題からいって 国語教育は、もともと第二信号系としてのコトバの訓練ということを課題としております。それは、思考や認識との結びつきにおいて、言語能力をひきだす作業です。そこでは、コトバの第一信号的(感性的)な面の指導ということも、第二信号系をくぐって、それとの結びつきにおいて行なわれるわけです。 誤解のないように言いそえますが、それは、コトバの訓練をとおして思考に結びつき認識に結びつく、ということではありません。そうではなくて、思考や認識――したがって自我に結びつかなければ、コトバの指導はおこなえない、ということなのです。 このようにして、言語能力を育てるものとして国語教育は、本来的に認識をはぐくむ教育となるのであります。あるいは、認識能力の発達をささえることで、それは認識をはぐくむ教育以外ではないのであります。 そのような国語教育にとって、情操陶冶の文学教育が、第二義的な意味と意義しかもちえないのは当然のことと言わなくてはなりますまい。指導要領において、それがアクセサリーとして考えられているのとは別の次元においてでありますが。 3.国語教育としての文学教育 私は、ところで、文学教育もまた、子どもの思考力や認識能力を育てる教育である、と考えたいのです。そのことで、文法教育がそうであるように、文学教育もやはり国語教育の主軸とならなければならない、と考えるのです。つまり、文学教育の作業にうちこむことが、同時に国語教育活動そのものに身を入れていることになるのだ、という私のおさえ方なのであります。 文学教育はそれとして国語教育であり、文学学習 を軸とした、体系的・統一的な一まとまりの国語教育の作業が文学教育にほかならない、というのが私の考え方です。 ですから、文学教育は、文字学習もやれば語い学習もやる。文法学習もやる。作文や話しことばの指導もすれば、むろん、いわゆる読解の仕事もする。それは、ただ、文学学習が軸となっている、というだけの話です。 右のようなおさえ方による文学教育活動の構想を、私は、《国語教育としての文学教育》として位置づけております。 が、しかし、そこで、文学学習を国語教育の心棒とする理由そのものが明らかにされなければなりません。そして、おそらく、その辺の問題を考えていくことが、また同時に、文学学習・文学教育が《認識を育てる教育》である理由と根拠を明らかにすることになるのだろう、と思います。 4.認識、そして芸術的認識 問題は、このようにして、やがて、文学は認識であるのか、ないのか、認識であるとすれば、それはどのような性質の認識であるのか、という、認識および芸術的認識の問題に集約されてまいります。 文学が認識でないとすれば、むろん私の《国語教育としての文学教育》という構想は、ご破産です。ご破産にするほかないのです。私の実感はあくまでそれを許さないけれども、国語教育にとって文学教育は第二義的であるという論理も、やはりこれを認めざるをえなくなるわけです。 ところで、文学が(一般に芸術が)認識であるとすれば……それが認識以外のものではないとすれば、文学教育は、国語教育そのものの体系的な一側面である、ということになるでありましょう。したがって、それは、単なる情操陶冶の手段といったものではなく、(教科の面にしぼっていえば)音楽・図工などの他の芸術教科や、社会科・理数科などととも協力して、それぞれの側面から子どもの認識をはぐくんでいく教育だ、ということになるでありましょう。 私たち文教研のメンバーは、その辺の問題を参加者の方々と考え合いたい、と願っているわけであります。「文学教育は子どもの認識をどう育てるか」という私の提案・報告は、そうした話題をひきだし、またそこでの話し合いに若干の資料を提供する、という役割りを負わされていることになります。 日文協や教科研などでのこの問題のつかみ方についても考えてみたいし、それから波多野完治博士がさいきん提唱しておられる映像――映像的認識の問題などにも、この報告のなかでふれていきたい、と思っております。 なお、演題を「子どもの認識をどう育てるか」というふうに、「認識」一般としておさえて「芸術的認識」と限定しなかった理由ですが、簡単にいって次の二つです。 私のいう文学教育というのは、たんに文学学習 のことではなくて、まさに文学教育 ――国語教育としての文学教育、すなわち国語教育そのものである、というのが理由の一つです。国語教育がはぐくむのは、たんに芸術的認識だけではありません。 二番目の理由は、科学的な認識と芸術的な認識とは、現実的には未分化な形、もしくは統一の形において一体化されているということ。そこには一体化された一つの認識があるだけだ、ということ。その点に関してであります。報告のなかで具体的に申しあげたい、と思います。 |
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