初期機関誌から

「文学と教育」第14号
1960年1月(ママ)発行
 誤った体験から  福田隆義 
 私は最近、高校一年の教え子から、次のような手紙をもらいました。 
―略― 小学校を卒業して、早や四年、―略― 私も、いろいろな体験をいたしました。でも、先生の指導のもとに学んだ読者への喜びは、私に毎月三〜四冊の本を読ませます。(最近読んだものは、ドストエフスキー〈白夜・罪と罰〉、有島武郎〈生まれいずる悩み〉、パール・バック〈大地〉などです。)先生のお読みになった書物で、よいものがございましたら、お教えください。―略―
 彼女が、いまどんな読み方をしているか、私には自信がありません。が、このクラスの子供たちを、とにかく本好きにした、という、うぬぼれをもっていました。事実、父兄からも喜ばれましたし、大多数の子供たちが、壺井栄〈母のない子と子のない母と〉をはじめとする、光文社の創作童話や、あの頃出版された、国分一太郎〈鉄の町の少年〉〈リンゴ畑の四日間〉、住井すえ〈夜あけ朝あけ〉等々を夢中で読んでいましたし、感想文なども、それ相当なものを誰もが書いていたように思っていました。
 だが、あとでふり返ってみますと、冷汗ものです。それ相当と思っていた感想文も、実は、特殊な者の模倣でしかなかった。誰かの感想を取りあげる。次は、それが形式化する。更に新しいものを話題にすると、こんどは、「ああ、そういうふうに書けばいいのか」と概念化してしまう。常に実感に即して、新しいものへと発展していく主体的な子供と、それに追随していく子供とでは、形のうえでは、にかよっていても、その質は、雲泥の差があったわけです。
 とにかく、その頃の私は、質に対する配慮がなかったわけではありませんが、“先ず、読書に親しむことだ”とか“楽しむための読書”(これもまちがいではないでしょうが)という考えが優先していました。せめてもの慰めは、私の推センした図書に、極端に、おかしなものがなかった、というくらいのことです。

 こんなことが、ありました。
 六年生の十二月、その年も炭坑の不況を中心話題に、NHKが“年末助け合い運動”を行っていました。
 その時、クラス会で、この運動に協力しよう、ということが決議され、かなりの、金・物が集められました。この事実に対しても、少なからず、うぬぼれていました。そして、こうした行動への誘因が読書にある。そんなふうに考えていました。
 ところが、その金・物といっしょに、私たちの気持も、ということで書いた手紙を読んで驚いたのは、これを提案した、三人の子供だったのです。その殆んどに、恵んでやる 、という意識がひそんでいたわけです。炭坑の子供と、同じ立場に立った、本当の仲間になっていない、ということに気付いたわけです。私は、善意に、子供たちの表現力の不足がこんな結果をまねいたのではないか? そんなふうにも考えてみました。が、提案者である彼等のいいぶんは、「NHKの宣伝がまずい、助けあいでなく、はげましあいでなければならない」というのです。そこで、私も加わって、その旨を、NHKに申しこんだりいたしました。
 この提案者であり、NHKへの具申者であり、運動の推進者の一人が、前記手紙の主です。彼女は、その動機を、「私は、壺井先生や、住井先生に、いろいろ教えられました。」と語ってくれました。勿論それが総てではないでしょう。いろいろの原因はあると思いますが、このグループが揃って、社会科(社会問題)好きだったという事実を、特につけ加えておきます。
 こうした認識や、行為を育てることは、学級経営、或は、教育全体の問題でしょう。けれども、文学作品のもつ“力”が特殊な子供にではあるが、大きな役割を果したことは、否定できません。
 この事実を、ふり返ってみて、前述の、恵んでやる立場でしか受けとめてくれない、大多数の子供たちにも、この“力”が生きて働きかけるためには、どういう作品を、どう指導したらいいのか? はっきりした姿勢でたちむかいたい。
 こうした反省から、私の文学教育の歩みは、はじまりました。

 先に彼女がいまどんな読み方をしているか、自信がない、と書きましたが、続きをお読みください。
―略― 六年生の頃は、、矛盾だらけの世間を、極端に嫌ったものですが、今の私は、もうすっかりその世間の一員として、毎日を送り、――これには自分ながらおどろいております。しかし、なんのために、なにを求めて、自分はこうして生きているのだろう、なぜ・どうして……、と思うことは毎々でございます。―略― 
 この手紙にまつわる、彼女の家庭、進学してからの言動も、書きたかったのですが――。

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