初期機関誌から
「文学と教育」第14号 1960年1月(ママ)発行 |
翻訳の罪――小学校に於ける古典教育(補足) 小川 勇 |
童子か小坊主か 先に、禅珍内供の鼻の物語の指導経過を此の誌上で報告し、さらに研究会でも報告し討議されたことにふれて、若干補足する。 先ず、古典文学の翻訳ということのむずかしさをつくづく感じとったということを申し述べたい。 熊谷孝氏は、私の翻訳になる「鼻」について、いくつかの誤訳を指摘してくださった。その中で、決定的な誤りとして、「童(わらべ)」を小坊主と訳したことへの忠告があった。「童」は決して小坊主ではなく、「童」はどこまでも「童」であって、将来、僧正とか内供とかになる可能性を持った小坊主ではなかったということである。 「童」は「童子」である。「童子」とは階級的にはっきり区別された存在であって、「童子族」は年をとって成年になったとしても、また老年になったとしても童子という称号から離脱することのできぬ、下層階級であったということである。熊谷孝氏は、文献を漁ってはっきりとこの「童」の地位を説かれたのである。 長野嘗一氏も、朝日新聞社刊「日本古典全集・今昔物語集・禅珍内供鼻物語」の頭註に「童」を「中童子」と訳し、「大童子・中童子・小童子」という身分の区別のあることを示し、決して小坊主などとは言っておられない。 「童子部落」というのが、その昔存在して居り、彼等は賤民として、生涯を下積みの生活の中で過ごしていた。「酒呑童子」というのも実は、この童子階級に属する人物であったという指摘が熊谷孝氏からあった。 初め、「童」が「童子」であろうとなかろうと、寺に住む「童」なんだから小坊主だってかまやしないと、いいかげんに思っていたのだったが、言われてみれば、これはでかいミスであったのだった。「童子」は所詮童子であって、やがては内供となる可能性を全く持たぬ人間であれば、彼が行なった内供へのレジスタンスは、小坊主のそれよりもはるかに、切実であるはずだった。もっと掘り下げれば、小坊主であったら、あのような、当時の状況下では、決してなし得ないレジスタンスを、童子であるが故になし得たのだということも考えられるし、解釈へのメスの入れ方も異なって来ようというものだ。 歴史は、遠い昔のことであるに違いないが、昔のことだからといって無責任に、その古さの持つ曖昧さにつけ込んではならぬということを思い知らされたものである。いや、遠い過去のことであるが故に、ことさら史実には忠実に沿うべきであり、また、観点の置きどころを確かに持って臨むべきであったのだ。 私は、この誤訳を、熊谷孝氏によって教えられ、再び教室にもどって、受け持ち五年の児童に私の誤りを詫び、「童子」だったということでもう一度、そのレジスタンスの如何を話し合ってみた。 残念ながら、時間の制限と、その上時期を失した指導であった為に、私の誤訳は、すでに取り返しのつかぬ、ある感動への定着を与えてしまっていたことを知った。恐ろしいことである。 読解指導ブームへの批判であるはずだったが…… 国語指導の中で「文の要約」というのがある。段落毎に、その文の内容を要約し、それを更にまとめ、やがて、主題へ近づくという、例の読解指導の形式化された手法があるのだが、説明文の場合は、これでよいかも知れぬが、文学教材では、それではうまくいかぬ。むしろ、人物を中心にしてとらえ、人物が、いつ、どこで、何を言い、行動したか、という観点からとらえなければ、うまくいかぬものだ。と、しゃあしゃあと言ってのけたのだったが、果たして、こういう私の偏った指導法に批判の声が多かった。結局は、私の報告の趣旨も、どうやら、読解指導ブームにまきこまれた者の言い分に過ぎなかったようである。 文学教育の目ざすところは、どこまでも、弁証法的に、思考することを軸として指導する事が建前であり、これこれこういう方法でやるのがよいのだという公式化はもっとも警戒せねばならぬはずであった。 今、われわれサークルの同人は、「芸術的認識とは」という命題で、「科学的認識」を一方の側に常に置きながら解明しようと研究をすすめている。その矢先、こんな安直な、一人よがりの狭い方法論をかかげることは、当然、つつしまねばならぬはずであったのだ。 公式的な読解指導は、文学教育の目ざすところを否定するものである。文学教育は、それ自体がもつ、理論が、また正しい理論に支えられた実践が、やがて、実を結ぶ時に、公式的な読解指導をつき破って、生き生きとした晴れ晴れとしたはっきりした姿を見せるであろう。文学教育を私はまだよく知らないのだ。 |
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