初期機関誌から
「文学と教育」第14号 1960年1(ママ)月発行 |
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‖共同報告‖『今昔物語』の世界――小川報告によせて | |
小川(勇)さんの報告は、『今昔物語集』のなかの一編(その訳文)を教材とした、教室実践に関するものであります。ついては、聴くほうの私たちとしても、あらかじめ『今昔』についての一通りの文学史常識は用意してかかる必要があろう、ということになりましが。それで纏めてみたのが、テープに吹きこんだ、以下の解説です。皆さんにお聴きねがうのは、何しろ、素人のやったことですから誤まりもあろう……そこを突いていただきたいからです。充分ご批判くださいますよう。 二つの評価 『今昔物語集』に対する評価は、人によってかなりマチマチのようです。それは、民族文学が『源氏物語』の世界から『平家物語』の世界へと飛躍し変容していく上の踏み台となった、基盤的・過渡的な作品だ、というつかみ方を、ある文学史家はしています(たとえば藤間生大氏のばあい)。 ところが、また別のある文学史家は次のように語っています。「それを、たんに基盤的な作品であると見るのは当らない。その新鮮な説話体によってかちえた文学的な新しさは、古代末期の第一芸術として評価されなくてはならない」という意味のことを、であります(永積安明氏のばあい)。すなわち、『今昔』は、古代の『源氏物語』、中世の『平家物語』とならんで、古代から中世へかけての、リアリズムの三つの異なった形式を代表する文学作品として評価されなくてはならない、とこの文学史家は語っているのであります。評価の大まかな方向において、すでにこの通りです。ディテールにわたっての評価は、これは十人十色どころの話ではないようです。 ナイーヴで影の多い作品 さもあれ、『源氏物語』の一倍半の分量、『栄花物語』の約二倍の分量をもつ、このボウ大な説話集……中国やインドにまで取材の及ぶ、千有余の説話を蒐集してリライトした『今昔物語』が世に出たのは、平安の末、十二世紀の初頭においてでありました。成立の時期を一一一〇年代とすることは、これは、こんにち多くの文学史家の一致した見解のようです。 一一一〇年代といえば、その三、四十年後には古代の終焉(しゅうえん)を告げる、保元・平治の動乱がはじまります。時代は、まさに、古代から中世封建制への歴史の曲がり角にさしかかっていたわけです。しかも政治的な意味での、貴族階級に対する武士階級の対立は、いまだ歴史の表面に判然とは現われてきておりませんでした。 なぜか世の中が変りつつある、ということは、だれの目にも明らかでありながら、それが一体どこへ向けて変って行くのか、ということが、つかめない。またそうした歴史の推移や変化をひき起こしているものの正体がつかめない、つかみにくい……という、こうした時代の微妙なありかたを反映して、『今昔物語集』というこの作品は、一見ナイーヴなその表現にもかかわらず、かなり影の多い作品になっているように思われます。 人間的なものへの感動 そうした時代の産物である『今昔物語集』は、いわれているように、武士たちの、あのはげしい下克上の革命精神を、まだ彼らの主従関係に見られる固い精神的結合や、情の濃やかさを、その内面の奥深いところで理解することはできなかった、それを内面的に理解し内面的につかみとることはできなかったけれど(さらにいえば、武士や庶民たちのそうした心情を「怪シキ者ノ心バヘ」としてしか、つかみえなかったけれども)なおかつ、その「心バヘ」を、一種畏敬の念をこめた驚きの目をもって、じっと見つめているのであります。 その結果、武士や庶民たちの間に芽生えてきていたところの、(貴族たちにとっては想像に絶するところの)その新しい人間性や人間関係を、かなりにリアルに描きだしているのであります。よく引かれる例ですが、その巻二十五に見えている、武士の棟梁・源頼信・頼義父子の「馬盗人」の説話などは、(作者は彼らのことを「怪シキ者」すなわち「下賤の者」の心根と行為に、深い、かぎりない感動を覚えていることを示しております。(以上、この項、永積氏の所説に負う。) もっとも、その感動の仕方は、自己のそうした感動を突き放して、その感動の由って来たる所をつかむ(つかみとる)という所までは行っていませんが、ともあれ、そこには人間的なものへの深い感動が見られるのです。この説話のあらすじは、ご存知の通り次のようなものであります。 ……梗概(『日本文学の古典』六九、七〇ページ参照)朗読(省略) つまり、父の頼信は、わが子頼義の“人間”をその内側からつかんでいるのです。私たち流のスラングでいうと、《相手の体験をくぐりぬけて、相手をその内側から理解している》ということになります。 頼義のほうも同様です。口に出してそれとは言わないが……いや、口や素振りに表わして示す必要がないぐらい相手を理解している。理解し合っている。それは、お互いがお互いを心に温め合って生きている、という親子関係、人間関係です。深い人間信頼と愛情がそこにはあるのです。 雨の中を訪れたわが子の顔を見るなり、「気に入ったら持っていけ。いい馬だよ」と語る頼信には、頼義の来訪の意味(その内心の願い)がわかっているのです。どうやら、わが子の訪れを心待ちにしていたような気配すら察せられるのであります。 また、「親ハ、子必ズ追テ来ラント思ヒケリ。子ハ、我ガ親ハ必ズ追テ前ニオハシヌラント思ヒテ」うんぬん……馬盗人追跡の一場面ですが、そこには相互の深い人間信頼がうかがわれます。 こうした人間関係、人間の心情が、カゲでは互いに相手の足を引っぱり合い、面と向ってはアユ迎合を事とする貴族社会を見なれたものの目には、まことに「怪シキ者」の間にだけ見られる、不可解な「心バヘ」として映ったに違いありません。 不可解であり不可思議ではあっても、しかし失われた“人間”の心のふるさとを、彼らは、そこに感じたに違いないのであります。このようにして、その文末に付記しているように、「怪シキ者共ノ心バヘ也カシ。兵(ツハモノ)ノ心バヘハ此ク有リケルトナム語リ伝ヘ」ることにもなったのであろうかと思われます。 作者の主体 さて、『今昔』の作者の主体を、歴史学者の藤間さんは、次のように推定しておられます。それは、貴族階級に反発しながらも、それに伴食するほかなかった下層貴族である、というふうにであります。肯かされるものがあります。 きょう、小川さんの扱われる説話は、武士に関したものではなくて、僧侶――しかも内供奉(ないぐぶ)という僧侶貴族を主人公としたものですが、藤間氏のいわゆる「貴族に対する下層貴族の反発」が、そこにはっきり見られるように思われます。童の態度にか、弟子の僧たちの態度にか? 双方をひっくるめてであります。(童と弟子との反発の仕方なり態度なりの違いについては、別に考える必要がありそうです。この点、後の研究協議のさいに触れることにします。) また、保元の乱以前の下層貴族は、その行動において若干の相対的進歩性を持っていたとも藤間氏は語っておられますが、氏のこうした見解を前提にしますと、右に見る、上層貴族に対する反発、したがって禅珍内供に対する反発にも「若干の相対的進歩性」が窺えるのかもしれません。 『今昔』の作者の態度は、多分に傍観射的であり、また多分に速記者的であって、対象の真実性に迫っていない、という批評もあるわけですが、この『池の尾の禅珍内供の鼻の物語』の場合、どういうことになるのでありましょうか。 |
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