初期機関誌から
「文学と教育」第11号 1959年10月発行 |
‖サークルの交流‖集団的思考を支えるもの―熊本文学サークルの場合 文責 荒川有史 |
○ はじめに 熊谷先生は、既報のとおり、八月六日から九日にわたって開かれた全青協連絡協議会文学教育部会に講師として参加され、さらに十一日には、熊本教科研国語教育部会でご講演。台風と追いつ追われつ帰京されたが、過労のため直に発病。二十二日の運営委員会には、病躯をおして出席され、九州の現況についていろいろお話し下さった。以下は、熊本文学サークルに関する部会の記録である。 A 別府の帰りに、熊本へお寄りになって、熊本文学研究会のメンバーとお話しあわれたそうですが……。工藤さんたちのやっているサークルですね。 熊谷 ええ、吉良敏雄(熊本市教育研究所員)、喜読喜市、永野一成といった方たち、新日文や日文協支部のメンバー、中学高校の先生たちが大多数のようでした。工藤さんからは、小川さんたちに、くれぐれもよろしく、との伝言でした。 A ああ、そうですか。それはそれはどうも。 B 熊本文学サークルのめざすところ――僕たちの場合とふれあうようなところがありますか。 熊谷 けっきょく目的はおなじなんですね。出発点からして。全青協の落し子だなんて言っていましたよ。文学のわからない人間には、人間教育はできない。そんな考え方が、どうもあるらしい。教師自身の主体をきたえるための文学の創作、文学の研究、そこへうちこんでいる。たんに教えるために読む、というのではなくて、自分たちのために文学ととりくむ――そういった調子ですね。 C 東京サークルでは、研究会のつみかさねとか、欠席した人とのギャップをうめることに悩んでおりますが、その点熊本ではいかがでしょうか? 熊谷 そこまでの話しあいはできませんでしたが、喜読さんあたりから、こんな話が出たんですよ。サークルはもちろん大事だが、それを大事にする意味でも、サークルでわいわいやっているだけでなく、一人になってじっくり考える、じっくり読書する。そういうことが裏にないとサークルの伸びもないし、一人一人の伸びもない。盲点をついた言葉だと思いましたよ。 D 僕たちにとっても盲点ですね。一人一人の真剣な学習と機関誌の活用が有機的につながっていない感じですから。それから、いそがしいという名目で方々の会議や研究会に、中途半端に顔出しするのも問題がありますね。 B どうも耳が痛くなってきましたね。(笑) D いや、一般的にみられる事実を指摘しただけなんで。(笑)とにかく、中途半端な学習は何にもならんのじゃないか、と自己反省したいわけです。 熊谷 同感だな。サークルへ顔を出していれば、それで何とかなる、自分の成長も約束される――という他力本願の迷信は、もうそろそろ払拭されなくちゃ。そこに気づいたという点で、熊本のほうが僕たちの場合のように、甘ったれてないんだ。ごまかしがないんだ。適当に、格好だけつける、といういやらしさがない。人間的に誠実だという感じなんですよ。少しうらやましかった。 D サークル広場の宮城研修会でも、小学校の教師をやっている芹沢さんなどから、東京グループの精力的な活動は、どんな所から生みだされたものか、と尋ねられて内心恥ずかしい思いをしましたが――。 熊谷 ほんとだよ。僕は何といっても人間の問題だと思うんだ。人間的非礼というのには我慢がならない。こんどまわった某県教組なんですが、教組執行部に対する同地の講師団の怒りというのも、それだった。組合至上主義が学者の研究スケジュールをメチャメチャにしている。話は違うが、いいかげんな気持で集まるサークルだったら、やめたほうがいいね。時間つぶしだし、いつも後味が悪い。 A この点、僕も確かにそうだと思いますね。さっき先生が、熊本サークルが僕たちより一歩進んでいる面として一人の場所における真剣な学習を指摘された。それが、すぐれた集団的思考の支えだ、とも感じられます。――ところで、教研の様子はいかがでしたか? 熊谷 要するにしゃべらされただけなんで、つかめなかった。印象をひらたくいいますと、いわゆる平会員が熱心にうなずいたり、求めたりしているのを感じましたね。―― |
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