初期機関誌から

「文学と教育」第9号
1959年7月21日発行
 すこしカチンときた  くまがい・たかし 

  何のための批評か

 Nさん。あなたが、こんど『講座 文学教育』(ジャンル別文学教育・古典の項)にお書きになったものを読んで、すこしカチンときている。もう先、僕が『読書科学』第四集に書いた文章(『文学教育と人間形成』)について、あなたは批評を加えているわけだが、あれは批評なんてものじゃない。ただの悪口だ。
 悪口には馴れっこになっている僕だが、それがカチンときたというのは、事実がゆがめられているからだ。真実、自分のしゃべったこと、書いたことについての批評であれば、結果としてそれが悪口になっていようと、僕は怒りはしない。悪口もまた一種の批評であろうから。
  が、ひとが言いもしないことを言ったといい、書きもしないことを書いたといってデマをとばしたあげく、きみはずいぶんお粗末な考え方をしてるんだね、フフン、といった調子の言い方をされたんでは、ぐっとくるのが、むしろ、人並みの神経というものだろう。
 いや、それも、デマをばらまいて相手を傷つけることをお家芸とする敵サンのやったことであれば、時と場合で、こちらも虫をころして黙っていよう。だが、いったい、あなたは何なんだ。ナカマじゃないか。共通・共同の目的に向って歩みを進めているはずの、ナカマではないか。
  ナカマであればこそ、じつは、お互いに批判し合うことも必要だ。むしろ、そこにきびしい批判が望まれる。
  しかし、(あるいは、しかも)その批判は、論理による論理への批判、対決であるべきであって、自己の論理の優越を誇って相手を見さげたような態度を、とるべきではない。あながち、自分のおこなった批評が実はマトハズレなものであったような場合に、恰好がつかなくなるから、というふうな意味でではない。
 相手が、ナカマが、そこに期待するのは、厳正な批判による愛情のこもったはげましである。ところで、批評に名を借りた、あなたのあの放言のなかに、僕はしかし、ナカマらしい一片の愛情も励ましも感ずることができない。
 ナカマとしての愛情を感じない、というのは、ナカマを感ずることができない、ということでもある。
 「……もっとラフなところでは、熊谷孝氏のように……というような、しごく便宜的なのも、あるようだ」うんぬん。
 ずいぶんいい気で、無神経なことばづかいだと思う。ある種の組合型教師について感じる人間的非礼を、また時として、批評家気どりの教師に対して感じることがある。ともあれ、こんなふうにヘンに気負った、ひとを見くだした調子で、僕はナカマから話しかけられたことがない。すくなくとも、ナカマからは、である。
  これは、たんに表面的儀礼の問題ではない。究極において“人間”の問題だが、それは当人の民衆意識のありように関する問題でもある。感情にヒビの入りかねないような、人間的に非礼なことばをナカマに向って叩きつけて、それでいい気持ちになっておれるような、いったい今はそんなノンキな時期なのか。


  文学教育は可能か

 Nさん。僕は、あなたに反問する。いったい、いつ、どこで、僕が、文学教育は可能かという問いをもつことが無意味だ、というようなことを口にしたというのか。
  また、「可能不可能を論議することよりも……とにかく教材に文学作品がはいっているのだから、といような、しごく便宜的な」また「ラフな」考え方を、いつ、どこで、僕がおし出したというのか。
  あの文章で僕が書いたのは、むしろ、《文学教育は可能か》という世間の声や自己内心の声に「はっきり答えるだけのものを……用意しておく必要」がある、という点についてだ。ただ僕としては、その問いの出し方なり問題の仕方について、ある種の提案(後述)をそこにつけ加えたにすぎない。
  かさねていうが、僕のそこでの発言は、この問題についてのはっきりした回答を、僕たち教師は用意する必要がある、ということだ。それを多少くわしくいうと、(1) 「教科書の文学教材だけはその都度こなしていかないことには、一日だって教室がつとまらないのが、教師の生活の実際である」こと、したがって、(2) 現場の問題は、それが可能か可能でないかではなくて、文学教育をどうおし進めるか」にあること、しかし、(3) 「それをどうおし進めていくか、ということを明らかにするためにも、じつは《文学教育は可能か》という世間の声にはっきり答えるだけのものを、こちらに用意しておく必要」がある、ということ等々について語ったわけだ。ひとの書いたものを批評しようとするからにはNさん、どうか行を追ってちゃんと読んでくれたまえ。
  ところで、そこにつけ加えた僕の提案というのは、たんに机上の論議として可能・不可能を考えるのではなくて、《文学教育は何をいかに》という、むしろ課題や方法の問題を深めることのなかでそれを追究したほうが、具体的でもあり論理的だろう、という点に関してであった。本来の主題がそこになかったので、意は尽していないが、趣旨はそういうことだった。
 つまり、文学教育活動は、たんに未知数の教育プランではないということだ。それは、すでに日常実践されている教育のいとなみである。で、そのことを無視したのでは、そこにせっかく置いてある鍵も使わずに、ドアをこじ開けようとするようなものだ、ということを言ったまでだ。
 日本の場合にかぎってみても、文学教育には数十年の歴史の背景がある。で、そうした既往現在の教育実践の成果・実績をふまえ、将来の教育計画を設計するための実験的意義をそれにもたせた、課題・方法の検討が、直接上記の問題に対しても、具体的かつ論理的な答を用意することになるのではないか、というのが、提案の底にある僕の考え方であった。
  なお、右の文章は何年か前のものだ。こんにち論議されているような視点からの問題提示ではなかったことは、断るまでもあるまいかと思う。


  文学的感動・文学的思考

 あなたは、また、僕の発言が文学的感動について触れるところがない、といって慨嘆しておられる。「まず感動しないで文学的思考も問題意識もあったものではない」うんぬん。
  どうも弱った。この思いを、一体どういいあらわしたものだろうか。つまり、こういうことだ。人間は、あれもこれもと、いろんなことを、一ぺんにはしゃべれないものだ、ということなのだが。
 書き手としては、そのときの与件と課題とテーマにしたがって、ある側面、ある角度からしかものが言えないし、そうするよりほか仕様がないのである。それに、そのことはそのことで別の文章でふれておいた、という一種の気休めみたいなものもこっちにはあるわけだ。あなたには読んでもらえなかったらしいが、感動の問題には、すでに、あっち、こっちで触れている。
 あらい言い方をすれば、僕のいう《文学的思考》というのも、あなたが言うところの「感動」にささえられた思考のことなのだ。あるいは、それは、文学的感動のなかにいとなまれる思考のことである、といってもいい。
 だから、「素晴らしい形象に対して教師自身が感動すること」が何よりだいじだ、というあなたの「理論」には、僕もまったく同感である。その点、旧著『文学教育』にもふれるところがあったあし、また、たとえばちょうど一年ぐらい前に書いた『文学教育の展開』という六〇枚の文章(教育実践講座・第二巻「国語教育の実践」国土社刊所収)もその大半を、僕はこの問題の追究に割いたくらいだ。
  つまり、右の文章では、第二信号系としての言語の反映論的意義において、文学の思考・認識の機能を考えてみたわけだ。そう考えてみることで、文学の表現と理解の過程を、感動による読者と読者との交流の場としてつかんだのである。もうすこし明確にいうと、作者によるところの《媒介による交流の場》として、それを考えてみたということである。文学の学習指導のしごとは、表現者(作者)による媒介に加えて、教師による媒介――二重の媒介である、というふうに、そこでは僕は考えてみたのである。
 前後の文脈から切りはなして、個々のことばだけを拾ってみても仕様のないことだが、ことばとして直接「教師自身が感動すること」が必要だという点にふれた個所を一二拾ってみると、それは次のとおりである。
 (1) 「教師その人が文学に感動し、その感動の持続において生徒とともに語り合う、ということが、指導の前提としてなければならない。」
 (2) 「あらい言い方だが、生徒といっしょに文学の感動に身をゆだねる、というところがないと、文学の学習は成りたたない、という点をここでは強調しておく。」
  また、たとえば最近では、「ともあれ、《教えるために作品を読む》《教室の指導にすぐ役だつような作品を選んで読む》というような、教師くさい構えをきれいさっぱりと棄てさって、しんそこから文学を楽しんでみていただきたい……教えるためにではなくて、まず自分自身、一人の読者になりきって読む――そこをくぐることで、実ははじめて文学教育の指導者としての資質も身についてくるのではないか」うんぬん(『カリキュラム』七月号・別冊)というふうに、「まず教師自身が感動すること」が大前提であるということを、僕もくり返し言ってきているわけだ。
  お互いの考え方が違う、とあなたはいうが、こう見てくると、上記、文学教育可能・不可能の問題にしても、またこの感動の問題にしても、方向的なズレはお互いの間にない、と言ってよいのではあるまいか。それを違うと感じるのは、そっちょくにいうが、故意か偶然かあなた自身の文意ハアクの仕方がズレていたことによるものであり、あるいはまた部分的な資料によって全体を割り切って考えようとする、やはりあなた自身のひとり合点によるものだ、と言わなくてはならない。
  事のついでにいうが、僕が文学的思考という概念を提出することで、思考を「科学的と文学的とに対立」させてしまった、とあなた言っているけれど、これもたんに「対立」させたり「分裂」させたんじゃなくて、思考の側面(あくまで側面)としてそれを考えてみたまでのことなのだ。上記の拙著や拙稿を読み返してもらえたら、と思う。
  なお、僕のいう文学的思考のの概念があいまいだという、あなたの批判だが、この点、つい先ごろの日本文学協会の年度大会でも、同様の批判が報告者によってなされ、討議へ持ち込まれたように聞いている。僕は、文学を認識としてつかむ前提に立って、文学的思考ということを言っているわけだが、ところで文学を認識として考える考え方そのものに対しても、討議のなかで批判が行われたという。大会記録をこの目で見たうえであなたによる批判と一括して考えてみたい、と思っている。
 ともあれ、文学を認識としてつかむ僕の考え方からは、思考を伴なわない認識というようなものは考ええないし、認識としての文学をささえる思考が、たんに思考一般であるとして割り切って考える考え方には、僕としては同調しかねるのである。この点については、なお機会をえて再論したいと思っている。
  つい腹を立ててしまった。妄言多謝 (59・7・3)

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