初期機関誌から

「文学と教育」第9号
1959年7月21日発行
 “講師団の日教組批判”の問題によせて 
 〈1〉 統一を期待して

 日教組の教育課程研究会で、講師団が、組合の闘争のあり方について強い批判をしたことが、大々的に報じられた(朝日新聞 七月六日・朝刊)。
 私たちは、この報道記事をそのまま事実として認め、そのまま信用することに深いためらいを感ずる。
 が、新聞報道の影響が広く大きいだけに、私たちは、この報道が示している分裂の動きを批判し、よりよき統一のために、その問題点を、私たちのできうる範囲において、明らかにしたいと思う。

 まず、さいしょに、日教組のあり方が、ゆがめられた形であるにせよ、マス・コミに対立のかたちで反映されたということを検討する必要があるだろう。日教組成立以来の活動形態や活動方針が、いま、反省の時点に立っているとも考えられるからである。
 一例にすぎないが、その貴重な研究の時間を犠牲にしても、学者は、民主団体に協力し奉仕するのが当然だという、「論理」が支配的だった。この組合至上主義が、どれほど民主的な学問活動を阻害したことか。日教組のそうした便宜主義がもたらした矛盾。その矛盾の一端がここに反映したとも言えるのである。


 〈2〉 賛成な点

 (1) どの程度正確かは問題としても、「日教組の闘争は、独占資本反対に終始している」という園部氏の批判にはきくべきものがある。
 日教組は、自己の独自性に立脚した独占資本反対ではなく、労働組合一般としての発言や闘争に終始したような印象を与えている。(これはあくまで印象にすぎないのであるが。)げんに、勤評には職場の意見を結集し得ても、教育課程批判においては、統一的な意見をうちだすことの困難を告白しているような組合型教師も少なくない。
 (2) 「講師団は日教組版の教育課程をつくって文部省に対抗するという意図は持ちあわせていない。」という意見にも学びたい。
 指導要領という形でのよりどころは、たとえ民主的なものであれ、教師の創造性をおしころし、研究の自由、学問の自由を自らの手でしばってしまうことになりかねない。
 (3) さらに、「文部省の教育課程に反対するためにも、まず教育課程を研究しなければならない。現場教師の勉強が足りない」といわれている点へも注目の目をむけたい。
 教育課程の吟味なしに、たんに文部省で作成したものだから反対するといった組合型教師への批判であるが、私たち自身きびしく自己批判したい点である。


 〈3〉 私たちが疑問とする点

 (1) 独占資本反対闘争が教育活動の独自性に基づかぬという批判には、まったく賛成できるのであるが、教育闘争の独自性を強調するあまり、政治闘争と文化闘争をきりはなしてしまうというのには論理の飛躍があり、現在まで築きあげてきた統一行動を自らの手で破壊することにもなるだろう。
 当然、文化闘争は、教育課程の研究・その本質の探究を内に含んでいる。しかもその探究は、個々の研究サークルや組合の教育課程研究会での真摯な研究にとどまるものではなく、ある場合においては、実力的なピケ闘争をも含むと考えられる。
 したがって研究活動と政治活動とは、教育分野における権力闘争の重要な両側面をなしているのであって、両者の間に画然とした一線をかくすることは、反権力への統一戦線に水をさすようなことになりかねない。
 新聞報道を全面的に信ずるわけにはいかないが、伝えられた限りでのこうした形式主義的な考え方が、仲間に対する批判にあたっては、傍観者ふうの姿勢となってあらわれている。たとえば、教師の勉強が不足しているという当然に批判も、どこがどう不足しているのかを、仲間の立場で批判しないかぎり、たんに相手を卑屈にさせるだけである。勉強できない条件は何か。それを克服する手がかりや方法はどこに求められるべきか……があわせて究明されなくてはならない。
 (2) また、「指導要領の全体的意図は反動的だが、部分的には改良された点もあるので、この改良された点を足がかりとして、教育の改良運動を進めるべきだ」という発言が、真実講師団の側から行われたとすれば、これには異議をさしはさまざるをえない。すくなくとも、国語科に関するかぎり、部分的にも全体的にも、「改良された点」は見あたらない、と言っていいからである。
 うたい文句の《学習の系統化》は、何ら実現されておらず、それが経験主義的である点は何ら前と変りがない。また、その根底にある旧き言語観・旧き文学観も何ら改良されたわけではない。
 かりに、部分的な改良がそこに行われているとしても、またかりに、全教育課程の改訂のなかに一、二の教科に関して部分的「改良」が見られたとしても、それが果して、改訂の「全体的意図」における「反動的」なものを阻止する「足がかり」となり得るであろうか。当然、それが、どういう方向に運動している全体の、どういう位置におかれた部分であるのかをあらためて吟味する必要があるだろう。教科相互の関連の問題としても、一教科内の問題としても、である。


 〈あとがき〉  サークル・文学と教育の会月例会は、7月11日(土)午後5時より桜田小学校において行われた。
 その席上、“講師団の日教組批判”が、当面の緊急な課題をはらんでいるものとして、まず、さいしょに検討された。新聞報道がどの程度真実を伝えているものかに疑ぐ
[ママ]を感じながら、与えられた枠内において問題の本質を検討してみたのである。
 それというのも、たとえば、“素粒子”の「日教組講師団、漸く日教組の行き方に苦言。良薬は口に苦し。飲まにゃ病気は悪化する一方。」(7.6 朝日夕刊)とか、あるいは、“天声人語”の「講師団がいうように、文部省の教育課程の改良された点を足がかりにして、民主的な教育の改良に進んでもらいたいものだ。それを頭から絶対反対で……云々」等々の見解に見られるように、日教組の対立をゆがめ、さらにその対立を拡大強調するマス・コミ一流の“論理”に、私たちは、強い不満といきどおりを感じていたからである。
 したがって、私たちは、あくまでも、“統一”を基調として、賛成できる点、疑問な点を出しあった。
 この討議の内容は、運営委員会の責任においてまとめられた。文体、用語の統一にはできるだけ留意したが、なによりも、基本的な討議内容を忠実に伝えることに努力した。
 
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