一月例会は、一月二十日(火)午後六時三十分より、桜田小学校において開かれました。今回は、特別に報告者を定めず、テキスト(国語教育の実践 国土社)を中心に“鑑賞”について研究を深めよう、と前月の約束にもとづいて行われました。
当日の出席者は、次の会員のみなさんでした。
熊谷、荒川、小川、小師、篠原、斉藤、木村、福田、宗岡、鈴木(司会)
“こわす”ということ
テキストについての疑問、感想から会が始められました。こわす ということばなんでありますが、何をこわしたらよいか、こわし放しでよいか、与えるものは何か、等々の質問が、宗岡氏や篠原氏から出されました。この疑問に対して、熊谷先生から、
「なぜこわすかというと、それはいやだからです。目的があるからです。文学は、常識の否定であり、通俗への反逆に出発するものであります。このような文学精神の出発点においては、ですから、例の徳目主義のあの通俗さとあいいれないものを持っています。
こわす、ということと、与えるということは、統一的であります。……方向としてはわかっているが明確でない、そこを明確にして行くために文学を与えるのであります。……
文学の課題は、モラルの追求にあります。真の道徳、人間的なものの追求にあります。」と、のべられました。
昨今、道徳教育の問題が、さまざまに論じられ、文部省の要領に従って、手引き書が作られています。その中に“徳目を教える”ことに文学作品を利用することがよい、とあります。文学の本質を逸脱し、人間的感動を無視した文学教育、それによって指導される徳目、“ひからびた”ものといえましょうが、現場教師はもう一度、しっかりと、考える必要があろうと思われます。
鑑賞について
今月の研究テーマであった鑑賞についてでありますが、何か一つの作品をあげて話し合ったら、と篠原氏の提案もありましたが、これは、鑑賞という概念の多義性もあり、むしろ抽象化する努力が必要であろうという荒川氏の提案がいれられて進められました。
「私は、鑑賞ということばを捨てて、それに代ることばを模索しつづけてきました。」と、小川氏の発言の示す通り、私たちは、確かにはっきりと概念をとらえることなく使ってきたと思われます。ですから、戦時中においては、例のファシストたちにも利用されてきました。荒川氏は鑑賞主義論争を通して史的に解明してくれました。(なお、くわしくは、熊谷先生の著書、荒川氏の「文献リスト」を参照)
しかし、鑑賞する、ということは“味わう”という所で使われていた、というのが、全体の空気であったようでした。「芸術作品に接したとき、いいなあ、よくないなあ、というのも鑑賞といえるんじゃないか、そこには、なぜ、どうして、などのことばの入る余地のないものであり、入れること自体おかしい」という斉藤氏のことばもありました。
熊谷先生から、
「鑑賞とは、読者が作者の心と一つになるということではない(追体験ではない)。描かれた対象に対する読者の感情がある。感動もあれば、嫌悪の場合もある。私たちは、そうした感情をひっくるめて体験する(準体験する)。これが鑑賞である。」と整理してのべられました。
なお、認識、表現、理解については、「カリキュラム」三月号に、日生連九段集会の成果の中で先生がのべられておりますので参照してください。
さらに小川氏は、教室実践の中から、「作品の中に人間がどう描かれているか、その人間が、自分とどうからみ合うか、を読みとらせることである」とのべていました。さらに「なかまの体験をくぐることだ、作品を通して、そこには、仲間づくりが行われるのである」とつけ加えられました。
熊谷先生も、
「外になかまづくりの出来ない人間は心の中にもできない。その逆も正しい」と、前おきをされ、先生自身御覧になった、モスクワ芸術座の「桜の園」を通して、“体験をくぐるということ”を話してくれました。この論文は「広場」25を参照してください。 以上
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