初期機関誌から

「文学と教育」第2号
1958年11月30日発行
 改訂指導要領と国語教育
 十一月十一日(火)、杉並区荻窪中学校で、月例の国語教育研究会があった。ちょうど十一月は私たちの“サークル/文学と教育の会”の熊谷孝先生が講師として参加されたので、編集部から小沢・荒川の二名が同行させて頂いた。以下の報告は、当日のメモをくりながらの話しあいを、小沢がまとめたものである。なお、杉並国教研は、私たちのサークルの仲間である藤井亨蔵氏が、中心となって運営されているものである。

  ファシズム教育のニュー・ルック

 新指導要領が、単にお粗末だ、というだけではなくて、ファシズム教育のニュー・ルックとして登場した、というのが、先生の講演の御趣旨ではなかったろうか。特に、国語科として問題をしぼることなしに、他教科、中でも特設道徳(「太陽系の太陽自体が特設道徳である」と文部当局の担当官が発言して、学校教育の中心におこうとしている)との関連において、国語科改訂もまた、その真のネライは、ファシズム教育への改訂である事を示してくださった。
 これを前提として、細部の批判にうつられたわけであるが、第一に、経験主義批判を話された。従来からの活発な経験主義批判を受けながら、文部省は本質的に経験主義を変えなかったこと、また、中学校の場合、部分的に言語主義への移行が見られるが、言語主義と経験主義とは、同じ一つの本質の二つの現象形態に過ぎないこと、しかも、言語主義への移行は、戦前教育への逆行である事等である。教育は、その本質は経験の仕方の変革 である。ところが、単に、経験を広めることに教育の仕事をすりかえている。その文部省の経験主義を、鋭く批難された。

  幼児語の否定

 次いで、文部省の言う所の、“系統性”が、いかに形式的で内容が空疎なものであるかを話された。例えば、小学校一年の指導事項に、「発音に気をつけ、幼児語を使わないこと」というのがある。一体どういう幼児語を否定しているのかわからない。これなど、“ の字の使用過ジョウを”等というのならばわかる。さなきだに動きの少ない日本語なのであるから、動詞・助動詞・形容詞などを大切に育てて行かなければならないのに、、「おあそび」などと、本来動詞として表現されるべきコトバを、それに をつける事によって名詞化して使用するなど、ますます動きの少ないものにして行きつつある現状、これら即ち、日本語の充実発展に対する反動的な用語例をこそ具体的に否定すべきであるのに、単に(幼児語をなおせ)式の表現にとどまっている形式性に、強い不満をのべられた。

  形象理論の復活について

 更に話題は、文学教育の側面からの批判に移られたわけであるが、文部省の意図する所謂道徳科文学教育は、全くナンセンスであること、これに反して、国語科文学教育は今まで、本来アモーラルな立場に立つ文学の、その文学的感動を中心として育てられて来たこと、即ち、作品全体の認識を中心として、人間の生き方を内面からさぐって行く方向であること。しかるに「改訂」によれば、それが、部分的修辞の鑑賞に逆もどりする傾向であり、表現のコマ切れを問題にする方向であることを指摘された。
 これは明らかに形象理論 の復活であり、移行の動きを見せつつある言語主義とのつながりがここにあり、しかも、修身教育の復活への、国語的賛同がここにあることを指摘されたわけである。
 その他、指導要領の文学観は、今日の文学研究の水準からは、あまりに蒙昧にすぎるという事実。また、国語教育の領域を〈話す・聞く〉〈読む〉〈書く〉という言語領域のみにおさえるおさえ方の問題、特に、コトバによる認識の二つの極として科学と文学を考えられるのが当然であるのに、その文学の国語科における重要性が全くないがしろにされている事、等々を豊富に提出してくださったわけである。
 特に結語は、現在、国語教育や文学教育の各種団体が作られているが、それを逆用してあらぬ方向へ方向づけていこうとするのが戦後ファシズムの新しい形態であり、その力が強く働いている現在、それを明確に把握して、今こそ意識的に民主教育を守らなければ、いつの日にそれを守る時があろうか、という、きわめて感動的なものであったことを報告いたします。

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