初期機関誌から

「文学と教育」第2号
1958年11月30日発行
 国語教育の機能的本質と役割 ―― 十一月研究集会報告

 月例・研究集会、十一月八日(土)午後六時より、桜田小学校において行われた、報告を中心として話しあわれた事柄をまとめてみたが、不充分な点は、皆さんの批判によって補っていきたいと思う。
 テキストは、波多野完治氏編『国語教育の実践』(国土社刊)所収論稿第一章・第五章――熊谷孝氏「国語教育と学校教育」「文学教育の展開」。

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  プロローグ――創刊号への感想から

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  国語教育の立場

 八日の教研集会の席上、国語教育という概念が、大へんまちまちで各人各様に使われているということを、篠原さん、前田さんが指摘しておられたが、理想として一つであるべき国語教育が、現実では複数の姿において存在している。一人一人が、自分の概念規定を絶対正しいと考え、あるいは無意識のうちに自明のことであると考え、議論を進めていくために、いろんな混乱がい生まれてくるのである。
 その反面、熊谷先生が指摘しておられるように、「ふつうに、よく、国語教師の立場は一つであるというふうな意味で“国語教育の立場からは”というようなことが言われている。この立場に立つことで、お互いどうしの利害関係の対立も、現実認識のちがいも、まるで一切がっさい解消されてしまうみたいに、この《一つの国語教育の立場》がもったいらしく説かれたりもしている。」「が、文学の立場であるとか文芸批評の立場、教育の立場、あるいは国語教育の立場であるといったふうな《立場》というものはどこにも存在しない。」「現実に存在するのは、ある立場の文芸批評なり、またある立場の国語教育なりである」(テキスト P10)。
 したがって、私たちは、まず、どういう立場から国語教育を考え、おし進めて行こうとするのか、という“国語教育以前”の課題を明確につかむ必要があるだろう。それは、“以前”であって、実は国語教育のあり方を根本から規定する底のものである。「現状では教科以前すなわち教科プロパーであるとさえいわなくては」(テキスト P26)ならない。そのことはまた、国語教育の構造、及びその機能的本質への追求が、“国語教育以前”の課題のもつながっていることを意味している。


  国語教育のしくみ

 現在、国語教育についての概念規定は、さいしょふれたように、百人百色といってよいだろう。が、無政府的とも言える、そうしたカオスを整理して行くと、大別すると六つにわけられた。
 第一は、言語教育を国語教育の中核とし、文学教育を言語生活教育の一部と考える。(時枝誠記・西尾実両氏)
 第二は、文学教育を国語教育の中核とし、コトバ・語法の教育を、文学である血肉の外皮である、と考える。(石田宇三郎氏)
 第三は、国語教育を、言語教育と文学教育との二つの部分、または同一線上の二つの段階にわけて考える。(益田勝実氏)
 第四は、国語教育を、言語教育的側面と文学教育的側面との統一として考える。(熊谷孝氏・鴻巣良雄氏)
 第五は、現在では、文学教育は国語教育の重要な一面であるが、将来は独立させ、国語教育の中心は、語い・語法であると考える。(国分一太郎氏)
 第六は、国語教育を・文法教育・文学教育・道具教科の三つの側面の統一として考える。(波多野完治氏)
 以上、六つの区分は、論理的・歴史的順序にしたがって整理してみたのであった。しかし、第六の見解が、そのまま論理的・歴史的結論だということには決してならない。たとえば国分氏は、文学科の独立を主張し、ただ現状では国語教育のワク内で、文学による人間形成を重視すべきだ、と言っておられるが、すこし前までは第一の立場に立っていた。つまり、国語 教える前にまず国語という見解である。
 小沢さんによれば、文部省の立場も、類型としては、第一の見解に属するのであるが、体験の質的な変革を求めるというより、たんに経験領域の拡大を追求する経験主義、それをふまえた言語教育の提唱、実践。こうした現実の中から、言語教育か文学教育か?という課題が、教育の植民地化に対する抵抗の一環として、提出されたわけである。
 が、第三の見解は、第一の見解が、なぜ、「アメリカ式の経験主義・実用主義の言語教育に抵抗感なしにあっさり結びつくことができた」か(熊谷孝氏『文学教育』P49)という論理的歴史的理由を明らかにしえなかったため、言語教育の延長線上に文学教育を位置づけるという、接木みたいな結果におちいった。
 したがって、国語への非歴史的理解、文学の基底を言語 生活に求め、本来の基盤である現実を無視する認識論的誤びゅう、あるいはまた、文学機能に基づく人間形成の軽視等々に対して、熊谷先生がきびしく批判をなげかけられたのも当然であった。(前掲『文学教育』第一章 問題史的展望)
 第四の見解は、つまり、逆コースへの時点において、国語教育に反映された経験主義・形象理論への批判の中から提唱された。熊谷・鴻巣両氏は、国語教育が言語教育と文学教育の二つの部分にわかれるのではなく、あくまでも分割できない一つの対象であることを強調した。「この二つの教育活動」は、「同じ一つの教育活動のウラ・オモテ」であり、「方向的に側面分析された、国語教育活動のそれぞれの側面である」(前掲『文学教育』 P190)と考える。第四の見解は、したがって、論争のゆがみを整理し、民族的自覚に出発した批判を、正確に位置づけた、といえるだろう。
 が、第四の見解は、一定の歴史的時点における整理であり、新しい段階では、また違った整理が必要になってくると、熊谷先生は語っておられた。さいきん、波多野氏によって提唱された国語教育論は、ニュー・ルックのファシズムを背景とする経験主義・形象理論に対する明確な批判である。が、その分析過程において、福田さんが課題として提出した文学的思考――典型の認識をネグレクトしている点が、疑問である。
 「単なる特殊を典型にかえ、深い感動とともに具体的形象において現実を見、かつ考えるという文学固有の準体験的認識」(前掲『文学教育』 P109)。この典型の問題を、波多野理論とどう対比させ、どう整理していったらいいのか、今後の私たちの課題でもあるだろう。以上をふまえ、次に、国語教育の中に位置づけられて来た文学教育の機能が問題の焦点となった。


  読者の体験をくぐりぬけて

 熊谷先生は、「このテキストの中で、文学教育における二つの経験主義的偏向を指摘しておられる。第一は、「自分の受持っている生徒というのがどういう子どもたちであり、またその作品がどういう雰囲気のもとでみんなに読まれたのか」(テキスト P205)考慮せず、クラスの子どもたちの反応を見て「ひとり合点の作品評価をやる」(同右)。第二は、「いい作品を数多く読ませ」さえすれば、と考え、「“わるい作品”を交えて読ませる、そのことで考えさせる、というふうな指導」を欠く場合(テキスト P205〜)。
 この偏向を批判し、克服するためには、どうしても「突き放して還る」(同右)という操作が必要になってくるのである。
 たとえば、『空気がなくなる日』(岩倉政治)、『雨ごいの村』(国分一太郎)などは、空襲・疎開などの戦争体験をもつ子どもたちを目あてに書かれたのであるが、それを今日の子どもたちに与える場合、彼らの生活環境に即した何んらかの導入が必要になってくる。こうした導入は、近代古典や西鶴、芭蕉、平家などを取り扱うときには、さらに要請されることでもある。木村さんが批判されたように、たんに知的な理解に終ることはさけねばならないが、同時にまた、知的な理解を通過することなしに、本来の読者の体験をくぐりぬけた準体験は成立できない。この一点が、白熱的な討論の結果さいごに確認された事項である。
 したがって教師は、「二重の意味において相手――本来の読者と非本来の読者――の体験をくぐって、媒介者としての自分にゆきつかなくてはならないのである」(テキスト P208)。

〈Y.A〉
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