恒例の文教研秋季集会が11月10日(日)午後、東京・世田谷の梅丘パークホールで開かれました。「自立した市民となるために」という統一テーマのもと、ケストナー『わたしが子どもだったころ』の検討を行いました。ゼミナールに参加した方々から、アンケートに応えて多くの感想が寄せられました。その一部をここにご紹介します。(なお、本文に一部省略など多少の変更を加えさせていただいたところがあります。) -2002.12.1-
 
やはり時間の割りに内容が多すぎると思いました。(N.T.さん・大学生)

ケストナーの思い出を読みとく中で、様々な方々の職業や経験を踏まえた意見を聞くことができて有意義かつ面白い時間でした。
それでは大学生としての私の視点はというと、やはり母への信頼・期待に応えようとしつつその限界も感じている場面が強い印象として自分に迫るものがありました。子供から大人へ乗り越える過程は、話題提供にも出ましたが捉え直しの過程にあるのだろうと思いました。
帰ってまた読み返してみたいと思います(O.M.さん・大学生)


素敵な集会に参加できて嬉しい限りです。感動を深められました。長い歴史のこと、夫婦の楽しくもきびしい生活のあり方、人間が育っていくことはダイナミックな世の中のあり方・人間生活の中にあること、などをとても楽しく学ぶことができました。
そういった豊かなものも、戦争が始まると一切否定され、世の中全体がダーと、ひとまとめに流されていくのだと、最後のp.236-237に描かれていますね。こわいです! レーマン先生は東京都のすすめる人事考課の方法ではABCDEのどこに位置づくのかな?と、今の教育行政の異常な側面を思っています。(N.S.さん・小学校教員)

○まず、自分史を両親の歴史から見つめているところに、ケストナーの勇気のと思考の深さを感じる。歴史の中での自分の位置づけの確認をするという行為をしっかりしている。そして、そうした両親のもとに育った自分の行動に自信を持ち、揺るがないキャラクターの形成をして来ていると感じる。
○ケストナーが「教師になれません!」と母親に宣言したのに対し、母親が「いいわ、エーリヒ、研究しなさい」と言うところは、井筒チューターの指摘でよく理解出来ました。子供の頃に先生になりたいと思い、いろいろな先生に出会い、先生像を学び、理想像がくずれて行く過程で、「なれません!」は、あきらめではなく、違う形での在り方をもっと学び得る、学んだ後での結論でもよいのでは、と考えたのではないだろうか。そうした悩みの過程、また悩んだ後の答えを、母はきっと良いものになると信じ、確信して答えたと考えられる。
○子供の心痛のところでは、根底に母への愛情があって、父と母のときの母の描写は、母を客観的にみた姿としての母であり、母一人に対面した時のケストナーは母を主観的にみて、母が自分(ケストナー)を確実に把握しつつも自分の判断にまかせるとしてつきはなすとき、つきはなされて良い結果を得るが、いつのまにかまた母の掌中に入っている自分を見出す。然し、何回もそれを経験していることで、母を理解し、信頼し続けているケストナーを感じる。
○フランツおじさんにはケストナーの作品の中の動的な存在として必ず登場する個性あふれる人物をみるし、レーマン先生については人を一面的に判断してはならない教訓的人物として描かれている。
○ケストナーの「わたしが子どもだったころ」を、戦争がその継続を断った。子ども時代が終ってしまった。その前の盛り沢山な子どもの経験が噴出して止まりそうもないところへ、ストップとばかり、爆弾が打ち込まれたようである。
○自分の狭い思考を刺激していただいた時間でした。(K.Y.さん・大学生)

長い準備ごくろうさまでした。ありがとうございました。企画し実行していく文教研の皆様の中にケストナーの強靱な精神がすでに根づいていることを感じます。
一人では読めなく、このような会を企画していただいたこと、感謝いたします。
文学を読む、文学に感動する、という意味を深く学ばせていただいた一日でした。
こんどは本当に友人の一人くらい誘ってごいっしょに参加させていただけたら……(私一人だけでは勿体ないですよ〜〜)、というのが実感でした。本当にお連れするためには、実力がないと難しいということも気付きます。
宿題がたくさんできました。では、再会を願って……。(R.S.さん)

好きな言葉に遠藤周作の「人生、やってみて無駄になることなし」というのがあります。本日の集会で、夏目先生のレジュメに取り上げられていた「子どものころ体験したいろいろなことが、多くの年月の後、初めて意味を持ってくる」(本文p.94)という言葉の意味を、改めてかみしめました。体験してみることの大切さ、そして、相手の立場に立って物事を考えることの大切さ、そういう姿勢をうしなわないことの大切さ、それも教育には欠かすことができないのだと、改めて感じました。
一冊の本を皆さんと一緒に読みあうことを通じ、いろいろな視点から物語をとらえることができ、ケストナー作品を堪能できました。楽しかったです。どうもありがとうございました。(H.H.さん・会社員)

嶋田先生の話題提供を受けて、皆さんが熱く語られている姿を拝見して、共に読み合う楽しさを改めて体で感じました。
自分の実体験と重なり、共感したり、違いを感じて親子の関係について客観的に捉え直して考えたり……、これが準体験なのでしょうか……?
親子関係の純粋さと、それ故の難しさを感じました。
ケストナーとは違い、愛情をゆずり合いながら(父が「お前がやってやれよ」と言えば母が「あなたがやってあげればいいじゃない」と。)育ててきてくれた両親ではあったものの、やはり母親、父親そのもの自体を丸ごと受けとめようとしていた子どもだった頃の私がいたと思います。互いを思う気持ちは人並み(?)以上であるのに、心の対話が成立しえないのは、私たち親子だけではなかったのだと安心しました(?)。そして、きっと世の中の多くの親子がもつ(愛すべき)悲しみなのではないかとも思いました。
最近行った個人面談で、「思うようにいかない」「どうしてもあの子を、追いこんでしまうんです。」と泣きながら訴えていたお母さんの顔(はわかりませんが……)と重なって思い出されました。この次はこのお母さんともう少し対話ができるのではないかと思いました。(K.F.さん・小学校教員)

ケストナーの作品は、子供の時に読まなかったので、「成人の頭」で感じ考える読み方しかできません。
どの作品も(ケストナーに限らず)そうでしょうが、フィクションであろうとノンフィクションであろうと、その作品の背負っている時代背景や作者が生きた、あるいは調べ研究した歴史があると思います。佐伯先生が発言し佐藤先生が続けた、この作品の中の人々が生きた戦争の時代を考えさせられました。案内状にもありました第三次世界大戦におののく時代に書かれたこの作品のうったえるものを感じた一日でした。ありがとうございました。(M.K.さん・編集者)

日々のせわしない生活の中で、読むものはと言えば新聞や雑誌エッセイ的なもの、ノンフィクション、それから子どもと楽しむ絵本、という感じでいました。文学作品には意外に手がのびずに。久々にケストナー文学にふれて、とても楽しく嬉しかったです。
人々がいきいきと興味深く描かれていて、これを読み対話した子どもや大人は改めて「人間って悪くないかもしれない」という気持ちになって自分のまわりの人々をとらえ直すかもしれません。自分にしたって、これに触発されてみれば、忘れられない思い出のひとつやふたつ出てくるし、そこには自分を育んだ人や自然が懐かしく、きのう会ったように見えてくる。それはとっても大切なことなんだ! と思えました。
そして、今は?と問い返してくるのだけれど、ケストナーはあくまでも厳しいけれど温かい気持ちでうながしてくれていると感じました。(A.R.さん)
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