文教研[私の大学]

第51回

全国集会
 文学史を教師の手に
“文学教師”――それは、自身に文学を必要とし、また、文学の人間回復の機能に賭けて、若い世代の“魂の技師”たろうとする人々のことである。そういう人々の中には、当然、学校教師もいるだろう。当然また、人の子の親や、兄や姉もいるだろう。限界状況の一歩手前まで追い込まれた、日本の社会と教育の現状は、今、まさにそうした人々の文学教育への積極的な参加を求めている。

文学教育研究者集団    
 ■ 期  日  2002年8月5日、6日、7日     
 ■ 会  場  東京都八王子市下柚木1987-1 大学セミナー・ハウス

無事終了しました。集会の記録は、「文学と教育」196号(11月発行)に掲載されています。
  ■ 統一テーマ    現代市民社会と文学 U――〈文体の喪失〉を越えて
      
 「人間は自分の文体(文体的発想)というものを持ってこそ、主体的、個性的にものごとを考えることもできる。」これは、『文体づくりの国語教育』(三省堂/1970年刊)の中にある熊谷孝氏の言葉です。

 ここで熊谷氏が言う“個性”とは、他者との関係を切って捨てたところに保持される単なる特殊性のことではなく、「自他の固い連帯性に立った主体性」のことです。また、“文体”とは、形式主義的に分類された文の種類などではなく、その人間主体の行為・生き方に直結する現実把握の発想によって規定された言葉のあり方――その人ならではの言葉のあり方のことです。したがって、真に個性的な文体とは、仲間の体験をくぐり仲間とともに行動することによって一人一人が自己の分担課題を自覚していく過程の中で、また、相互変革を実現しうるような伝え合いを目指して一人一人が言葉を操作していく過程の中で、創造されていくものであるはずです。

 だが、現在の日本社会(日本型現代市民社会)における疎外状況は、個性的な文体を持つ人間が育つ条件を巨大な圧力によって押しつぶそうとしています。「人間の内部はバラバラに解体され、心身ともに独占資本への奉仕品として飼い馴らされ、画一化され、規格品化されようとして」(『文体づくりの国語教育』)いる状況は、1970年代よりも一層深刻化しています。しかし、だからこそ、私たち一人一人が自分の文体を回復していくために、真に個性的な文体を持った文学との対話が、またそういう対話を持続的に組織していく活動としての“文体づくりの文学教育”が今日ますます必要になってきているのです。

 今回は、大江文学・大江文体との対話を通して、今日の文体喪失状況と闘い、自己の文体を回復していく道筋を探究していきたいと思います。

  ■ 日  程

      5日 6日 7日
午前 9:30





12:00






  
「原爆を許すまじ」
中間総括


ゼミナール
大江健三郎『芽むしり仔撃ち』

〈チューター〉 井筒満、高澤健三


〈報告グループ〉
荒川有史 荒川由美子 伊藤洋子 岩崎晴彦 香川智之 金井公江 佐伯昭定 佐藤嗣男 椎名伸子 芝崎文仁 嶋田順子 朱通節子 鈴木益弘 中野斉子 夏目武子 成川日女美 西平薫 野口貴年 橋本伸弥 樋口正規 福田隆義 松浦麻紀子 森田高志 


中間総括

4.ゼミナール
『芽むしり仔撃ち』
(続き)













5.あいさつ 副委員長 金井公江
午後4時終了
午後 1:00









4:30
午後1時開会
1.あいさつ 
 
委員長 夏目武子


2.基調報告
@戦後近代主義との対決    井筒 満
A文体の喪失と回復      佐藤嗣男



※生活案内
7:00




9:00
フリートーキング@  
〈私と大江文学〉、
『「自分の木」の下で』など、もろもろ
【参加自由】
フリートーキングA
〈私と大江文学〉、『「自分の木」の下で』など、もろもろ
【参加自由】


  


 ■ テキスト

  • 大江健三郎『芽むしり仔撃ち』(新潮文庫

 ■ 参考文献

  • 大江健三郎『「自分の木」の下で』(朝日新聞社)
  • 熊谷孝『文体づくりの国語教育』(三省堂、絶版)
  • 歴史科学協議会編『日本現代史』(青木書店) 
 
会場の大学セミナー・ハウス講堂正面(2002.3.28)
    
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