全国集会プログラム〔前文〕目次 | ||
文学史を教師の手に 芥川龍之介から太宰治へ | 第23回全国集会(1974.8) | →(1) | |
井伏文体の成立――『幽閉』から『さざなみ軍記』へ | 第25回全国集会(1976.8) | ||
文学史の中の井伏鱒二と太宰治――長篇小説をどう読むか | 第27回全国集会(1978.8) | ||
文学教師の条件――異端の文学系譜を探る中で | 第31回全国集会(1982.8) | ||
写生文と近代小説の文章表現――文学教師の条件(第二回) | 第32回全国集会(1983.8) | ||
日本近代文学における異端の系譜――井伏文学を中心に | 第33回全国集会(1984.8) | ||
戦争の現実と太宰 治――日本近代文学における異端の系譜(第三回) | 第34回全国集会(1985.8) | ||
言文一致再説――現代日本語の創造を導いた人々 | 第36回全国集会(1987.8) | ||
政治と文学・文学教育――虚構精神確立のために | 第39回全国集会(1990.8) | ||
現代史としての文学史――虚構精神とは何か、と問う視点から | 第45回全国集会(1996.8) | →(2) |
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文学教育の復権――読者論の視点から |
第46回全国集会(1997.8) | ||
内なる会話の回復を | 第47回全国集会(1998.8) | ||
現代にとって“虚構”とは何か | 第48回全国集会(1999.8) | ||
雪がなだれになる前に――ファシズム下の抵抗文学 | 第49回全国集会(2000.8) | ||
雪がなだれになる前に 現代市民社会と文学――芥川龍之介から大江健三郎へ |
第50回全国集会(2001.8) | ||
雪がなだれになる前に 現代市民社会と文学(Ⅱ)――〈文体の喪失〉を越えて |
第51回全国集会(2002.8) | ||
太宰治とケストナーにみる戦争の現実――現代市民社会と文学(Ⅲ) | 第52回全国集会(2003.8) | ||
<喜劇精神>を支えとして――戦争の現実を生き抜いた太宰治とケストナー | 第53回全国集会(2004.8) | ||
未来に生きる過去――太宰治とケストナーの喜劇精神 | 第54回全国集会(2005.8) | ||
未来に生きる過去(2)――太宰治と井原西鶴の喜劇精神 | 第55回全国集会(2006.8) | ||
文体づくりの国語教育――教材化の視点 | 第56回全国集会(2007.8) | ||
“自分”を切り拓く“笑い”の文学――太宰治「畜犬談」とケストナー「一杯の珈琲から」 | 第57回全国集会(2008.8) | ||
〈私〉の中の〈私たち〉を考える――有吉佐和子「ぷえるとりこ日記」と太宰治「燈籠」を読む | 第58回全国集会(2009.8) | ||
「高校国語教材」の検討 現実発見の武器として――芥川龍之介「羅生門」・安部公房「赤い繭」 |
第59回全国集会(2010.8) | ||
「文学の言葉」を、今こそ、発信しようよ――井上ひさしと太宰治 | 第60回全国集会(2011.8) | ||
“人間合格”の文学――井上ひさし/異端の系譜に立って | 第61回全国集会(2012.8) | ||
真の社会人になるために ――森鷗外「高瀬舟」・井上ひさし「夢の裂け目」(東京裁判三部作より) |
第62回全国集会(2013.8) | ||
飼い馴らされないために 対話の回復と喜劇精神――井上ひさしと森鷗外 |
第63回全国集会(2014.8) | ||
対話精神の回復 本物の民主主義を求めて――井上ひさしと井伏鱒二 |
第64回全国集会(2015.8) | ||
岐路に立つ文学教育 ――「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)と「朽助のいる谷間」(井伏鱒二) |
第65回全国集会(2016.8) | ||
今こそ、真の〝対話体験〟を文学教育で ――井伏鱒二「さざなみ軍記」と井上ひさし「ナイン」 |
第66回全国集会(2017.8) | ||
バトンを渡すもの 受けるもの ――吉野源三郎『君たちはどう生きるか』/ 羽賀翔一『漫画 君たちはどう生きるか』 |
第67回全国集会(2018.8) | ||
文学の論理とは何か――西鶴と鷗外・芥川が問いかける | 第68回全国集会(2019.8) |
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