佐藤嗣男 『芥川龍之介 その文学の、地下水を探る』 (2001.3 株式会社おうふう)より    【研究会資料】
芥川文学と「謀叛論」――熊谷孝『なぜ、今、芥川文学か」を読む
 
(初出:『文学と教育』127号 1984.2/再録:日本文学研究資料新集19『芥川龍之介 理性と抒情』有精堂1993.6)


芥川文学奪還の提唱


 一九八四年一一月二六日付『赤旗』の文化欄「研究から」に、熊谷孝の「なぜ、いま、芥川文学か」という興味ある一文が載っている。
 熊谷氏の一文はコラムという枠の中で、短さを余儀なくされてはいるが、芥川研究の最近の動向をよく見きわめ、〝芥川文学研究のアポリアを打ち破る一つの大事な視点〟を提示するものとなっている。次に、その全文を引用させてもらうことにする。

  今はまだ仮説でしかない。が、いわば《徳冨蘆花の『謀叛論』と若い日の芥川竜之介》といったテーマの切り取り方で芥川の世代形成過程を考え、芥川文学の地下水とでもいうべきものを、『謀叛論』に媒介された大逆事件との関連の中でつかみ直そう、という試みが、いま始まっている。
 いうまでもなく、『謀叛論』は大逆事件の判決・処刑の直後に、蘆花が旧制一高でおこなった政府批判の講演であり、芥川はまた当時、一高生であった。そこで、その講演の聴衆の中に芥川の姿を見つける事ができるか、どうかの調査に始まって、両者の関連を探る資料踏査が、最近でいえば佐藤嗣男氏や関口安義氏、松沢信祐氏などの研究者によって精力的に進められている。

  あと一歩という感じである。その作業がもう一区切りつくところまで来れば、戦後数十年の芥川文学研究史を根底から書き換える、確かな論理的な足場を用意することができようかと思う。研究史の書き換え?……いわば芥川文学の、民衆サイドへの奪還である。
 というのは、戦後・現在の芥川文学研究は、文学の研究というよりは芥川の人物論であり、芥川その人の〈死の秘密〉を問う論議にすり替わってしまっている点も少なくない。その自殺は、彼の人間不信の絶望感によるものであり、またそれは、自己の人間性不信に表現を与えた芸術的な死である、といった類の意見も後を断たない。
 さらに、人びとは、各人各様のその死に対する〝解釈〟に従って、〈うしろ向きの予言者〉よろしく、芥川文学はその出発の当初から絶望の文学であったとか、退廃的な耽美主義の文学であった、というふうに語るのである。『謀叛論』と若い芥川との関連を探る資料研究の営みは、実は〈うしろ向きの予言者〉たちのこうした不毛な論議にストップをかけ、芥川文学奪還のための作業の第一着手にほかならない。

 芥川の死からさかのぼる形で、ということは死へのコースを生きた芥川の姿として、その人生コースを一義的・単線的に位置づける既往現在の主流的芥川論に熊谷氏は疑義の眼を向けるのである。素直に作品に即して見れば、そこに彷彿としてくる芥川の姿は全く別の姿を見せてくる。実像とは異なったところで云々される不幸な作家、芥川龍之介。見るに忍びないのだ。《冬の時代》と《暗い谷間の時代》とに挟まれた《大正デモクラシー》の時代を、その大正期の疎外状況の中で、個としての自覚に立って、自己の世代の精神的自由を賭けて、《倦怠》と闘い続けた《作家芥川龍之介》の姿を、まさに(、、、)今こそ(、、、)民衆サイドへ(、、、、、、)奪還せんというのである。一九八〇年段階の核状況下の倦怠に呻吟している現代の民衆の相互主観性
(1) の相手として、芥川文学を、わたしたちの手に(、、、、、、、、)奪い返そうというのである。
 そうした芥川文学奪還のための作業の第一着手として、氏は、芥川文学に実現
(アピア)された作家芥川の文学的イデオロギー(2) のよってたつプシコ(心理)・イデオロギーの形成過程を究明する必要があることを提唱する。そして、そのプシコ・イデオロギーの中核を骨太に流れる源流を、一九一一(明治44)年二月一日の、旧制一高で行なわれた徳冨蘆花の講演「謀叛論(、、、)に媒介された大逆事件(、、、、、、、、、、)との関連の中でつかみ直そうではないか、と具体的に仮説を提示されているのだ。

熊谷氏の国立音大講演

 ところで、熊谷氏の、大逆事件との関連で芥川文学をつかみ直そうという提案は今日この頃のものではない。一九七二
(昭和47)年の文教研(文学教育研究者集団)春季合宿研究会で、実は、その端緒が切られていたのである。

  「幸徳事件に続くダーク・エイジ」と、「3・15事件を第一次モメントとする30年代の暗い谷間の時期」とをつなぐ「暗黒政治への反発・抵抗としての大正デモクラシーの時期」の最もアクチュアルな文学体験を言い表す〝芥川文学〟の誕生を、第二次改稿(現行流布本)『羅生門』の成立(一九一八年=大正七年七月)に求める理由を、まず明らかにしたい。

 これはその研究会での氏の報告レジュメ
(『文学と教育』74号 一九七二・四、収録)の一節であるが、芥川が創作活動を行なった時期をはっきりと「幸徳事件に続くダーク・エイジ」以降と規定し、作家芥川のプシコ・イデオロギーの形成の起点に幸徳事件=大逆事件が何等かの形で位置づくことを示唆している。こうした氏の、芥川の精神形成の過程への追求は、さらに、同じ年の八月に行なわれた、文教研・第21回全国集会の講演でより鮮明なものとなってくる。

   大正デモクラシーに固有な文学体験のアクチュアリティーを、現実にこの作家が芸術的虚構性と形象性において創造主体の内側のものとなしえたのはどの時点においてであったか、という問いが、さし当たってわたし自身の課題となるのである。(注記するまでもないことだが、芥川は一八九二年に生まれ、三・一五事件の前年にあたる一九二七年の七月に自殺している。幸徳事件の判決と処刑のあった一九一一年一月の彼は、十八歳の高校一年生であった。)

 翌年の五月に出された氏の『芸術の論理』
(三省堂)に収録された講演レジュメの一節だが、氏の追求の眼は、旧制一高一年生の芥川、そしてその「一月」へと、いよいよ焦点が絞られていくのである。
 一九七八
(昭和53)年一一月五日。国立音楽大学・芸術祭のプログラムの一環として、「日本近代文学における異端の系譜――鷗外・芥川・井伏・太宰――」と題して行なわれた熊谷氏の講演があった日である。現代社会に生きる私たちの問題意識と切りむすぶ形で構築される《現代詩としての文学史》の主軸に位置づく異端の文学系譜を、日本近代文学に的を絞って氏は話された。内貴和子の言葉を借りれば「〝人間としての真実〟に向って誠実に自己の文学を追求し続け、またそれ故に、異端の道を選びとった作家たち」(「熊谷孝氏の音大講演を聞く」/『文学と教育』107号 一九七九・一二)についてである。そして、その中で、氏は、芥川文学を直接的に(、、、、、、、、、)触発したものとしての(、、、、、、、、、、)謀叛論(、、、)()再評価(、、、)する。以下、その辺を内貴氏の整理によって見ていこう。

 ――(蘆花の)講演内容は、残された二、三の草稿をあわせ見ると、だいたい次のようなものであったらしい。歴史をふり返ってみると、謀叛人と呼ばれた人達こそ志士であった。人を愛し国を愛するがために命を投げ出して戦った人達であった。その陰に隠れていた人々が今高官となって人民を圧迫している。支配層を帽子に、国民大衆を体に喩えれば、人間の必要に応じて帽子はあるのであって、帽子のために人は生きていない。それなのに今、帽子は重くのしかかり、体をこわがってもっと強く押さえつけようとする。帽子を押しのけたいと思う心と、帽子と、どちらが暴力か! 幸徳秋水らは帽子に殺された。
 だが彼らの魂は生きている。現に今、支配層はふるえあがっているではないか。型にはめられた人形のように、自己自身を失うとき、それは魂の死である。自己に対し、周囲に対して、生きるため、自由であるために、常に謀叛しなければいけない。大事なものは、君たち自身の人格である。
――明治の御世に、随分思い切ったことを言ったものだ。やはり、蘆花の体を張った講演だったのである。
――ちなみに、当時の一高生の顔ぶれを見ると次のようなものである。弁論部で講演依頼を行ったのが、後の社会党委員長の河上丈太郎。東大総長の矢内原忠雄。プロ作家の藤森成吉。河合栄治郎。安部能成。豊島与志雄。芥川の親友だった恒藤恭。そして、芥川竜之介、等々。芥川がその場にいたかどうかはまだ立証できないが、当時全寮制だったことや、恒藤恭らが参加していたことを考えると、仮にその場にいなかったにしても、あの感動をよんだ講演のことが芥川の耳に入らなかったとは思われない。

 そして、氏は、「蘆花が、彼の文学的イデオロギーに貫かれた〝文学としての講演〟で学生に臨んだように、鷗外においても、大逆事件は、自己の文学を見つめ直す大きな契機となった」として、話題を鷗外に転じていった。が、改めて注記しておこう。前記『赤旗』のコラムで氏が、「いわば《徳冨蘆花の『謀叛論』と若い日の芥川竜之介》といったテーマの切り取り方で芥川の世代形成過程を考え、芥川文学の地下水とでもいうべきものを、『謀叛論』に媒介された大逆事件との関連の中でつかみ直そう、という試みが、いま始まっている」と述べられた《試み》は、実は氏自身の手によって、この音大講演の中に試みられていたのだという、芥川文学研究史上の、その重みを、である。後続の研究者の顔をたてられて、「いま始まっている」とされてはいるが、こうしたテーマの切り取り方は決してごく最近の芥川研究が発見し開拓したものではなかったのである。
 大逆事件が、永井荷風や石川啄木、そして森鷗外らの、自己の文学を見つめ直す大きな契機、主題的発想の転換をうながす大きな契機となったのは、事実である。そうした文学史的事実をふまえて、《文学史的事象としての大逆事件》というテーゼを、熊谷氏が文学史研究の方法として明確に位置づけたのは、前記「春季合宿研究会」の前年、一九七一
(昭和46)年の一月に三省堂より刊行された『現代文学に見る日本人の自画像』においてであった。同書での言葉だが、『幸徳事件はまことに文学史的な出来事だったと言わなければならない」ものだったのである。
 単なる社会的事象としての事件としてではなく、自己の生き方にかかわる問題として、次代
(大正期)を担う青年達一人ひとりの倫理の問題を問う、そうした出来事としても大逆事件はあったのである。個としての自己の、そしてまた自己の属する世代の普遍の問題として意識的に大逆事件を受けとめ、それを自己の文学の課題として展開させていった《大正デモクラシーの文学体験》をわかち持った世代もいたのである(3)。幸徳秋水らとは立場を異にするとはいえ対話の精神を全く欠いた天皇制絶対主義を前にして、人間性の尊厳と魂(精神)の自由を人間一人ひとりが失ってしまってはならないことを、身体を張って語りかけた蘆花の、まさに《文学としての講演》を媒介として、《文学事象としての大逆事件を受けとめた世代の旗手が、芥川龍之介だったのである。この世は狂人のオリンピアードだ、走ることをやめてしまったらおしまいだと、「侏儒の言葉」(『文芸春秋』一九二三・一~一九二五・一一)の一節に書きつけた芥川の、闘い続けんとするプシコ・イデオロギーを直接的に触発したのが、蘆花の「謀叛論」だったのである。大正期の疎外状況を、個と普遍の倫理の問題――文学の問題として受けとめ、倦怠に抗して闘い続けた芥川文学の文学的イデオロギーの地下水の源がそこにあったのだ。
 熊谷氏の音大講演での、芥川が蘆花講演を聞いていたにちがいないという指摘は、《文学史的事象としての大逆事件》との関連を抜きにして芥川文学は語れぬという文学史的必然性に基づいて導き出されたものである。優れた文学史的感覚が生み出した、画期的な指摘だったのである。(p.38-44)


  【注】

  (1)相互主観性 原義は、フッサールの現象学で、複数の主観がそれぞれ主観のままで共同で築き上げる一つの相互関係――例えば、自他の結びつきの契機として重要な意味を持つ言語的伝達を考えてみると、〈私〉と〈他者〉は語りかけとその受容によって最初の合意に至り、そこで、〈他者〉は〈私〉にとっての「汝」になり、〈私〉は〈他者〉の「汝」となり、「ひとつのわれわれ」として共同化される――を示す Intersubjektivität(「間主観性」とも訳される)によるが、〈私〉の主観性が〈他者〉の主観性との関係を離れては存在し得ない、ということ。その意味で、〈私〉という存在は、複数の〈他者〉を反映(――主観相互の媒介的反映)した〈私の中の私たち〉として、また、〈私〉を反映した複数の〈他者〉から見れば〈私たちの中の私〉としてあるということである。〈普遍〉と〈個〉の問題を対象とする文学にとっては看過できない問題。(乾孝『私の中の私たち』いかだ社 一九七〇・五、熊谷孝『井伏鱒二』鳩の森書房一九七八・七、神谷英二「言語と共同体」 『国学院雑誌』一九九六・六 等参照)

  (2)文学的イデオロギー 熊谷孝は〈文学的イデオロギー〉に関して、「人それぞれの生活感覚や生活の態度・姿勢、あるいは生活のムード、それらは各人のメンタリティー(佐藤注=心的状況のこと)のありかたにかかわっているわけです。ところで、そのメンタリティーのありかたを根源的に方向づけているもの、あるいはそれに制約を与えているものがプシコ・イデオロギーなわけです。直接的にイデオロギーが制約を与えているのではなくて、プシコ・イデオロギーが直接的に……ということなのであります。(略)イデオロギー⇔プシコ・イデオロギー、という関係であり、また、プシコ・イデオロギー⇔メンタリティー、という関係にあるわけなのです。(略)私は、そのようなプシコ・イデオロギーの特殊な一つのありかたとして〈文学的イデオロギー〉を考えているわけです。どういう特殊なありかたなのかと言いますと、それを、プシコ・イデオロギーの言語形象的に客観化されたもの、という押え方で考えております。」(前出『井伏鱒二』)と述べている。

 (3)世代 「歴史的体験を共有することで共通の心理構造や社会的行動様式をもつ一群の同年齢層の人々。generation 」(『日本語大辞典』講談社、一九八九・一一)のことであるが、さらに限定して言えば、精神形成期に共通に遭遇した事件の衝撃(ショック)を持続させ思索し続けている一群の、生年や成長期を同じくする、あるいは近くする者同士のこと。 
(p.53-54)


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