N さんの例会・集会リポート
   
  吉野源三郎「君たちはどう生きるか」 3

文教研のNです。

例会では吉野源三郎「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)を最後まで読み終わりました。
この作品に入ってから、いつにも増して討論が活性化。
なぜだろう、というのも面白い問いです。

今回はこの作品の山場でもある「雪の日の出来事」をめぐって、例会の様子を振り返ってみました。

北見君は柔道部の五年生から目をつけられています。
生意気で学校の気風を乱すから制裁を加えるというのです。
この話を知ったコぺル君たちは、浦川君の発案で、もし北見君が殴られそうになったらみんなで北見君を守って、ダメなら一緒に殴られようと約束します。
しかし、コぺル君はみんなと一緒には行動できませんでした。
「卑怯者」……胸をえぐられるような経験です。

例会でのやり取りの一端を。
Izさんが隣のKさんに「オレは口では色々言うけど、いざとなるとコぺル君なんだよな。Kさんはカツ子さんじゃない?」。
Kさん「私は確かに校長室まで文句言いに行ったことあるけど、でも、ただ行動すればいいってもんじゃない。Izさんは頭いいから。迷うこと、躊躇することは大事なのよ、特にこのコぺル君の時代にあっては。」と応酬(?)。
Sさん「でも、コぺル君には『これじゃダメでしょ!』って言わないと」。
「コぺル君は確かに考える人ですよね。問題のたて方を変えて言うと、浦川君の行動をとる可能性も、コぺル君の行動をとってしまう可能性も、読者にとってはどちらの可能性もリアリティーをもって感じられる描写になっている、ということなんじゃないですか。」と分けて入ったのはIwさんでした。

コぺル君について話しながら、浦川君の行動についても確かめられていきました。
「油揚げ事件」で堂々と味方になってくれた北見君への信頼。
コぺル君や水谷君、カツ子さんとのわけ隔てのない友情の中で価値観を共有し合う経験。
そうした中で、自ら考え発見した行動選択。
「浦川君には“仲間を孤立させない”という発想がある」というIzさんの指摘に共感しました。
こうした仲間の中だからこそ、自分らしく成長した浦川君の姿があります。

では、コぺル君の苦悩はどうでしょう。
Izさんは井上ひさし「父と暮せば」との関連を指摘しました。
石田忠さんが提起した被爆者の感じる“うしろめたさ”、そこへ通じていく問題がある。
そして、それへの答えが「叔父さんのノート」にある。
……今後の深めるべき課題です。

この間、3・11から5年ということで各種報道がされました。
とりわけ原発問題は深刻です。
避難者は、自己責任で故郷を捨てる選択を迫られています。
あらゆることに“うしろめたさ”を抱えざるを得ない状況へ追い込まれた人々、それを放置したままできてしまった日本社会。
この“日本”が私たちなのだ、という忸怩たる思いに蓋をしたら、本質を見ることは出来なくなってしまうでしょう。

“自己責任論”を振りかざす人たちは自分は責任を感じない。
「日本死ね!」といった母親は、わが子に対しすまない思いを抱えているはず。
原発再稼働に訴えを起こした広島・長崎の被爆者は、放射能の恐ろしさを知っていて黙っていることは出来ない。
何が歴史を動かしていくのか、その人間の精神のあり方を考えていくとき、「叔父さんのノート」の指摘は大いに私たちを鼓舞してくれます。

春合宿前までに、もう一回、「叔父さんのノート」について例会で指摘されていることを整理しておきたいと思っています。
……できるかな?

【〈文教研メール〉2016.03.16 より】


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