N さんの例会・集会リポート
   
  吉野源三郎「君たちはどう生きるか」 2

文教研のNです。

前回の例会報告では、「君たちはどう生きるか」という作品全体の文体のリズム、その特徴を考えるきっかけを整理してみました。
今回はコぺル君の精神の成長に焦点を当てたいと思います。


お話はコぺル君がまだ中学一年だった十月のある日の午後から始まります。
コぺル君が叔父さんと銀座のデパートの屋上から街を見下ろしています。そこでコぺル君は、後に叔父さんからコぺル君と呼ばれるようになる「へんな経験」をするのです。


 だが、ふとその考えに自分で気がつくと、コぺル君は、なんだか身ぶるいがしました。びっしりと大地を埋めつくしてつづいている小さな屋根、その数え切れない屋根の下に、みんな何人かの人間が生きている! それは、あたりまえのことでありながら、改めて思いかえすと、恐ろしいような気のすることでした。(13頁)


 コぺル君は妙な気持ちでした。見ている自分、見られている自分、それに気がついている自分、自分で自分を遠く眺めている自分、いろいろな自分が、コぺル君の心の中で重なりあって、コぺル君は、ふうっと目まいに似たものを感じました。コぺル君の胸の中で、波のようなものが揺れてきました。いや、コぺル君自身が、何かに揺られているような気持ちでした。(19頁)


例会では、この描写が印象的であること、また、こうした経験が自分にもあったと共感する人の発言が続きました。
急に世界が変わって見える、居心地のよくない体験。
世の中の広さに「暗い、冬の海」を感じるような経験。
そこにはひたむきに人生と向き合い目覚めていく、少年期の典型的な姿が描かれているということなのかもしれません。


そのコぺル君が、さらに仲間を通して成長して行く姿が描かれていきます。
「誰がなんてったって」というガッチンで陸軍大佐の息子の北見君、
貧しい豆腐屋の浦川君、そして有力な実業家の家庭に育つ小学校からの友人の水谷君。
家庭環境の違う、しかし、自分が見つけた気の合った仲間たちです。


例会では、学校という場所はこのように違う環境、階層の子どもたちが人間として出会う場所だ、という意見が、特に小学校、中学校の現場経験から多く出ました。
(熊谷先生が指摘してこられた、戸坂潤の学生論を意識しての発言でもありました。)
現実には「油揚げ事件」のようないじめ、差別も起きる。しかし、それでもコぺル君たちの出会いは、“学校”の持つ可能性を鮮やかに感じさせてくれます。


さて、私が例会のやり取りをめぐって、コぺル君の成長について印象に残ったことを一つ。


「四、貧しき友」の冒頭、中野さんから問いかけがありました。
「なぜコぺル君は北見君に『僕、今日は、ちょっと用があるんだ。』なんて言ったんでしょう。浦川君をかばったあの北見君なのに、なぜ黙って一人で行くのか。私の場合、気が弱いので人を誘って一緒にいくとこですけど。」
「確かに……」と思いました。(中野さんが気が弱いかどうかは別にして。)


いくつかのやり取りがあり話は先へ移って行きました。けれど私の中でその問いは何か引っかかりを感じさせていて、会の終わりごろ自分なりにある整理したイメージにたどり着きました。


それは、コぺル君には勘が働いたんだな、ということでした。
「油揚げ事件」を通して、貧しい浦川君の存在を意識するようになり、学校を休んでも見舞いに行く友だちもいないことに気づきます。世の中に自分の知らない気の遠くなるほどの人が生活し、その人間社会が「人間分子網の目の法則」で繋がっていることを発見したコぺル君です。「かぜをひいたのかも知れない」と自分の常識のなかでは思うけれど、でも何か他にあるのかもしれない、という勘が働いている。
そして、そのことを人に頼らず自分一人の力でやってみようとする姿勢、それこそ自立していく少年の姿、精神の成長の証だ、と思いました。
少年時代と切っても切り離せない冒険とは、そうした孤独な営みです。


成長する、教育する、ということは、この“勘”を養うことだ、とつくづく思います。
私としては、中野さんの問いを考え続けてこの勘の問題まで至ったところで、コぺル君の成長のあり方というものを、また一歩深く実感できるようになりました。
みんなで一緒に印象の追跡をする醍醐味です。


前回は「五、ナポレオンと四人の少年」を読み合い、「英雄精神」などが話題になりました。いくつもの触発される討論があって、特に「叔父さんのノート」の特徴が深められてきたのではないかと感じました。次はそんな点に触れられたらと思います。


以上。


【〈文教研メール〉2016.02.11 より】


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