N さんの例会・集会リポート   2012.4.14-5.26例会 
   
   太宰治「惜別」
文教研のNです。
例会報告が、随分長い間ご無沙汰してしまいました。
忙しいと先延ばしという「のんきな仕事」になってしまって申し訳ありません。

さて4月から例会では太宰治「惜別」(1945年9月)の印象の追跡を行ない、前回例会で最後のパートまで読み進めました。
次回例会で全体を討論することになります。
ここではそれへ向け、今の私が受け止めた課題を、大づかみに一点だけ書き留めておこうと思います。

例会でも確認されましたが、熊谷孝氏の以下の指摘が、「惜別」についての基本的な方向を指し示してくれています。

  ひとこと、『惜別』について言えば、人間の誠実さを誠実さとして描く、あえて言うなら“誠実な人間”をそこに描く、描き切る、というその姿勢は、『右大臣実朝』や『善蔵を思ふ』のそれにつながるものがありましょう。あるは『善蔵を思う』から『右大臣実朝』などを経て、そこに見つけた『惜別』の誠実な人間像なのであります。単に人間の誠実な面を、ではなくて、誠実な人間を、なのであります。誠実な人間は実在する。それを実在すると考えるのは、前近代の類型的人間把握に基づく旧い想念なのではなくて反対に、「凡俗の胸を尺度にして……人間はみな同じものだ」と考えることこそ、「浅はかなひとりよがりの考え方」だ(『右大臣実朝』)、というわけなのであります。それはまた、同時に、自然主義的な平板な人間観の否定の表明でもあります。(熊谷孝『太宰治「右大臣実朝」試論』1987)

現在の私には、「後年の魯迅」ではなく「ただ純情多感の若い一清国留学生としての「周さん」を……若い周樹人を正しくいつくしんで書くつもりであります」(太宰治「『惜別』の意図」)ということの意味が、この「誠実な人間像」とのかかわりの中で強く響いてきています。

この作品は老医師の述懐の形で書かれています。
太平洋戦争下の現実の中で晩年を迎えた人間が、日露戦争下の青春時代を書く、という構図です。
そこでは戦争の現実という避けてとおれない問題を前に生きてきた人間の、青春、世代形成期が描かれていきます。

「青年らしい高い理想」を持った「周さん」が、どのように仙台で人生の転機を迎えたか。
「忠」とは、「愛国」とは。
日本と中国、その双方が、周さんの思い込みや誤解も含みながら、合わせ鏡のように映し出されていきます。
そして、医学の立場からではありながら、信頼にたる先達である藤野先生。
その周さんと藤野先生を心底敬愛するようになる「私」。
三人の異なる視線が愛情を持って重なり合う姿の中に、「アインザームの烏」を気取ることすら許されないところへ追い込まれた、太平洋戦争末期を生きる青年たちへ向けての語りかけがあると感じました。
戦争や革命を前にした青春。
避けてとおれない課題を前に、彼らはどのように人と出会い、伝統と出会い、国について考え、社会について、芸術について考えたか。
そして、人生の価値を何処に求めたか。

それは現代の日本、自分の将来も生命も脅かされる状況下に置かれた青年たちへ語るべきものとも通じていくと思いました。
そして、青年でない私自身にしても、世代形成期に寄り添うことで、今必要とされている新しい人間への可能性が見えてくるのではないか。

ふと、9・11後、ペシャワール会の代表である中村哲医師が、日本の教育に望むものは?と聞かれ、「気立てのいい人間を育てて欲しい」と答えていたのを思い出しました。こんな時代にあって、若い人たちにどう育っていって欲しいのか。今回、私が「惜別」を読みながら、考え始めた課題です。
一点だけ、といいながら長くなりました。明日を楽しみにしたいと思います。

〈文教研メール〉2012.6.8 より

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