N さんの例会・集会リポート   2012.1.28例会 
   
   井上ひさし「イーハトーボの劇列車」
文教研のNです。
ずっと例会報告が滞り、申し訳ありません。
結果、一度も「イーハトーボの劇列車」について書けませんでした。
先日の例会(1/28 1月第二例会 )で読み終わりましたので、全体を通して今、自分の中で課題意識として残っている一点についてお伝えしたいと思います。

1月第一例会の折、I さんが提起した問題があります。
それはこの作品の中で賢治が自分を「デクノボー」と思うことと、今、「子どもたちの自尊感情が弱い」といわれること、あるいは湯浅誠氏のいう「すべり台社会」の中で「どうせ自分は誰からも見向きもされない人間だ」と感じることとは、どう考えるべきなのか、という提起でした。

以下、賢治と第一郎との日蓮論争の一部を抜書きます。

第一郎  弱い日蓮にどうやってこの世を浄土にできるのだい。「この世を浄土に」、これが日蓮の根本思想だぜ。弱い日蓮宗信者に、この世を浄土にかえることができるか。できないだろう、え? だとしたらもう日蓮宗信者じゃない。矛盾してるよ、君。

賢治  自分がデクノボーであると思いつめて、徹底すること、それがまことの力です。人間が自分のことを、世の中にあるものなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないと思い、それに徹したとき、まことの力があらわれるのです。もっともおれはまだまだニセモノのデクノボーだから、まことの力は授かっていませんが……

賢治 山男のような頑丈なからだがあれば百姓でもなんでもやって父ちゃんから自立できたと思うども、……そうなっと、強い日蓮ば信じたかも知らね。(かつらをむしり取って)おれ、デクノボーで良い。               
 
 (井上ひさし『イーハトーボの劇列車』「9 最後の滞京」より)


頑丈な体で親から自立していたら信じてしまったかもしれない「強い日蓮」、しかし、それができなかったからこそ掴めた「デクノボーの日蓮」。

湯浅誠氏が、「自分自身からの排除」、つまり自己疎外の問題について書いているところの一部を抜書きします。

 そして第五に、自分自身からの排除。何のために生き抜くのか、それに何の意味があるのか、何のために働くのか、そこにどんな意義があるのか。そうした「あたりまえ」のことが見えなくなってしまう状態を指す。(中略)「世の中とは、誰も何もしてくれないものなのだ」「生きていても、どうせいいことは何一つない」という心理状態である。(中略)世の中が大変なことになっている、セーフティネットが機能していない――こうした現状については理解できる人でも、「自分自身からの排除」については、なかなか想像が及ばない場合が多い。「そんなふうに考えなくてもいいじゃないか」と個人の問題をどうしても見出してしまい、「自分は絶対そうはならない」と言って切り捨ててしまう。貧困問題を理解する上で、一番厄介で、重要なポイントである。              
 (湯浅誠『反貧困』「第三章 貧困は自己責任なのか/1 五重の排除」より)

「みんな頑張っているのに、どうして同じように頑張れないのか。」

その「上から目線」を克服し、同じ疎外状況下にいる人間として同じ目線に立つことは想像以上に難しいことだと思います。
「評価」が横行するに今日の日本社会にあって、私たちは日常的にいつも「評価」されています。
学校でも「外部評価」の位置づけは華々しく、業者テストの結果が学校選択性における学校の格付けにつながっています。
数字が出れば、その評価基準がどういうものかという論議は吹っ飛んで、その数字に脅される日常に放り込まれます。

では、その自己疎外の状況を克服するにはどうしたらいいのか。
「自分のことを、世の中にあるものなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないと思」うこと、「外部評価」で劣った評価をもらうような経験を糧にしないと、見えてこない現実があるのかもしれません。
体が強くても「強い日蓮」の方向へ行くとは限らない、「外部評価」がよくても体制側につくとは限らない。
しかし、経験的にそれは難しい、ということは感じます。

自分の無力さを知った上で、「精神的その日暮らし」にならないための具体的な一手を思いつく力。
生き難い日常の中に具体的な小さな希望や喜びを発見する困難に立ち向かう、そんな変革者への一歩として、「デクノボー」のイメージは、問いかけてくるものがあります。

「ダメ人間」といわれる人間の中に……、という問題は、これから井上ひさし「人間合格」を読んでいくに当たっても考え続けていくべき課題です。


〈文教研メール〉2012.2.11 より

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