秋季集会総括
文教研のNです。
前回例会は秋季集会総括でした。
冒頭でIさんが、先日、メールでお知らせした大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論 未来社会は資本主義のなかに見えている』(桜井書店/2011・9刊)の紹介をしてくれました。
そして、「文学と教育」215号で佐藤嗣男さんが示した、「消費者」「企業人」「生活人」の三角形の中に「生活感覚の錆落とし=人間恢復」の問題をさぐった図表と、このマルクスの人間観とをつなげて考えてみることの必要性を強調されました。
さて、様々話し合われた中で、一つの焦点は中村畳店のお父さんと英夫くんの世代の問題でした。
畳職人として、また、生活人としての受け継ぎの中で培われた人間信頼の姿勢、そうした連続面と、同時に「父にも分かりません。父は土手の木陰で試合を見ていただけですから。」という非連続の面、そこをどう見るのかという点です。
例会の流れは、父と子の正太郎への態度の違いは何処にその本質があるのか、という問いかけから始まり、父も英夫たちのことを思えばこその怒りになっている点、「自給自足」していた新道を知っている父とナインのとき以後はバラバラになってしまった英夫たちとの対比などが話されました。
そこでの軸は、父の世代を受け継ごうとしている英夫世代、という点にあったと思います。英夫は父の培った新道の精神を、今の立場で受け継ごうとしている。新道の人間関係を、今の現実の中に作り出そうとしている。だからこそ正太郎を警察に突き出さない。それは逆に正太郎へのメッセージにもなっている。英夫は絶えず自分には何が出来たのか、できるのか、という問題として考えている。だからいずれ正太郎を捉まえて話をするときも来るだろう。正太郎を「切り捨てる」のではなく、ボタンの掛け違いで転落していった仲間としてもう一度つながり直すために「賭ける」という姿勢を選択する英夫たちがいる。
こうした討論の流れの中で、改めて、父には言っても分からない、というこの英夫の存在が、この作品の大きな魅力になっている、という発言がありました。英夫たちは自分たちの意志では連帯を維持できなかった世代だ。その中で自分を問い返している。一方、父に自分自身への批判はない。土手の木陰で試合を観戦はしたが降りてはこなかった。しかし作品としては、「私」の突っ込まれるのを承知の「分かるような気がする」発言、その狂言回しの役割によって英夫の父への思いが引き出されていく構成になっている、そういう指摘だったと思います。
少し誇張して書いた面もあるので、中村さんには自己批判の眼がない、傍観者の姿勢、という掴み方だと引っかかる、ということもありそうです。
しかし、あえて引っかかって考えてみることで、世代の受け継ぎの問題、今日につながる80年代の問題としてさらに深められる問題がありそうに思いました。
【〈文教研メール〉2011.12.10 より】
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