「父と暮せば」第3回
文教研のNです。
段取り悪く、例会報告が遅れました。
5月第二例会を欠席され、今日の例会に参加されようと思っている方には、本当に申し訳ありませんでした。
冒頭に全国集会プログラム前文の検討を行い、続けて井上ひさし「父と暮せば」(新潮文庫)第二・三場を読み合いました。
これまでの流れの中で確認されてきたのは、この作品世界は、象徴劇として美津江の内面世界が展開されている、という点でした。
今回の例会は、さらにその美津江の内面世界の対話のありようはどのようなものか、というところへ少しずつ話が進んでいったと思います。
美津江の内面が相反する二人の自分へ「真っ二つに分裂してしま」う、ということを作者自身が語っていますが、しかし、その一人がどうして竹造のような存在なのか、その必然性がリアリティーを決める、その独自性を見極める必要がある、という指摘がありました。
特に、「死者との対話」と一口に言ってもそのあり方は様々だ、という点が、 I さんによって強調されました。
内なる対話の相手としての「死者」は、その人と別れて以後の体験を反映していく。
去年の全国集会で話題になったNHK「心の遺伝子」での益川敏英さんが坂田[昌一]先生だったらどういうだろう」という問い直しの中で考え続けてきた事実。死んだ先生だったらどう考えるか、と想像することで、亡くなった先生が本当の相談相手になっていく、という事実だ。
我々の場合も、熊谷先生だったらどうだろう、と考える。
誤解かもしれないが、新しい状況の中で考えていく。
美津江の中にはそれがある。
諦めそうになるときも、お父さんだったらどう考えるだろう、と考え直す。
と同時に、今まで出てこなかった竹造が語りかける存在になったのはなぜか。
三年経って自分を正面から見据えようとし、木下とであったとき、応援団として出てくる。
そしてまた、その竹造が、「おまいの気持ちが、ちいとは分かったような気がするけえ。」というかたちで逆に美津江の気持ちをくぐることで分らなかったことを分かっていく。
死んだ人間が生きた人間をくぐることで分かっていくことがある。……
このことは、第三場を読みすすめながらも深められていきました。
「死者」といっても、竹造のような存在と、昭子の母のような存在がある。
「うちの子じゃのうて、あんたが生きとるんはなんでですか」このような問いかけでは相手の内面には入れない。
昭子の母は対話の相手ではなく“命令者”になっている。
……
今日の例会は、ここ第三場から最後までです。
【〈文教研メール〉2011.6.11より】
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