井上ひさし「闇に咲く花―愛嬌稲荷神社物語」2
文教研のNです。
先日の例会では、井上ひさし「闇に咲く花」(1987初演/『井上ひさし全芝居 その四』新潮社所収)の第二幕を読み合いました。
愛敬神社と靖国神社との対比など様々な課題が話し合われましたが、ここでは I さんが前回の文教研メールについて問いかけられた点を軸に、自分なりに考えていったことを書いておきたいと思います。
前回の文教研メールに書いた偶然と必然の問題について、 I さんから熊谷孝氏の指摘と絡めて考えてみる必要があろうということを指摘されました。
井伏鱒二「増富の渓谷」(1941)について書かれている部分です。井伏の実在の友人たちが語らう中で、違う人間が二十年以上も経て同じ場所で同じ女性たちに会う経験をした、そして、その話を聞いた青年がその「偶然を求めて」自分も増富に行く、という短編です。
「さしづめ、この美しい娘さんたちは胡桃の木の精というところですね。胡桃の木の存在に気づき、その巨大な美しさに感動できた人たちの前にだけ木の精は姿を見せるのですね、不変のその美しい姿を。ともかく、この作品が日中戦争末期のあのかさかさに乾いた時代に書かれた作品であることを思ってみてください。佐藤垢石も村松梢風も、この作者に言わせれば、胡桃の大木に感動をもって気づき、したがってその精を目にしうる人なのですね。」(熊谷孝『井伏鱒二』1978)
この指摘を振り返りながら、ありうべき「偶然」が具現化するときはその瞬間を見逃さないときだ、とあらためて感じました。
「闇に咲く花」の場合、それは例えば、公麿が健太郎を御神木の杉の根元から抱き上げた瞬間です。
愛する家族を失い生きる気力のすべてを失っていた公麿だからこそ発見した生きる希望、それが健太郎との出会いであったといえます。
またそれは「捨テラレタ赤ン坊」であった健太郎にとって、「ウレシカッタ」という人を信頼し人生を肯定する原点とも言える瞬間だった、だからこそその瞬間を想い出すことが、健全な精神へ戻れた瞬間にもなった、といえると思います。
ある意味でこの作品は、戦前戦後を通じて何度も何度も捨てられていく子ども(民衆)を民衆自身が何度も何度も拾い上げる瞬間の物語だ、ともいえます。
別な角度から言えば、そうした瞬間は自己への問い返しの中で、常に新しい瞬間として生まれ変わっている。
それは例えば、ニセ健忘症を演じるのをやめる健太郎についてです。
I さんは、彼が自分のテープの言葉を聞きながらその声の中に死んだ友人たちの声を聞き取り励まされながら変わっていく、と指摘しました。
いわばその声は、meがI(中川作一氏の「三者関係」)に転化していくような、自分に課題を与えてくれる声だ、という指摘でした。
健太郎 花は黙って咲いている。人が見ていなくても平気だ。人にほめられたからといって奢らない。ましてや人に命令をくだしたりしない。神社は道ばたの名もない小さな花なんだ。(中略)花と向かい合っていると、心がなごんで、たのしくなる、これからの神社はそういう花にならなくちゃね。花は心を落ちつかせる色をしているよ。(一瞬の、微かな怯え。しかし立ちなおって浄く明るく)ぼくは正気です。
この言葉を聞くと、太宰文学と取り組んできた私たちは、太宰との共軛性を感じないわけにいきません。
「芸術とは何ですか。」/「すみれの花です。」/「つまらない」/「つまらないものです」(「かすかな声」1940)
「人々は、念々と動く心の像のすべてを真実と見做してはいけません。……時々刻々、美醜さまざまの想念が、胸に浮かんでは消え、浮かんでは消えて、そうして人は生きていきます。その場合に、醜いものだけを正体として信じ、美しい願望も人間にはあるという事を忘れているのは、間違いであります。……真実は、常に一つではありませんか。他はすべて信じなくていいのです、忘れていていいのです。」(「女の決闘」1940)
太宰治と井上ひさしの共軛点と違う点。その読者層のあり方や歴史的場面の違いなど、その対比の中に太宰から井上ひさし、そして、私たちへと受け継いでいくべきものは何なのかが見えてきそうな気がしました。
【〈文教研メール〉2011.2.16より】
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