N さんの例会・集会リポート   2010.7.10例会  
   
  安部公房「赤い繭」の検討2

文教研のNです。
前回例会では、安部公房「赤い繭」(新潮文庫『壁』所収)について、教材化の視点、全国集会への課題といった観点から検討しました。

最初に「街中こんなに沢山の家が並んでいるのに、おれの家が一軒もないのは何故だろう?……」という問いかけ,
何故そんな問いかけをするのか、という不思議さが、率直な疑問として出されました。
こうした作品の入り口について、指導書などでも色々な問いが用意されているようです。
例会では、「では家があるのは自明のことなのか?」という問いかけがされました。

前回例会でされたような発表時点の場面規定をしていったとき、また、私たち今日を生きる読者にとって、本当にそれは自明なことなのだろうか。
最も基本的な人間の居場所である「家」が、なぜ自分にはないのか、という問い。
思索し続けなければならないことを読者へ受けて問いかける文体、それがそこにはあるのではないか。
安部公房の使う“寓話”は、芥川が現在の課題を考えるためにあえて異常な事件を過去に求める、という方法とつながりあうものがあるのではないか。
日常の中で飼いならされ思考の自由を失っている人間たちに向かって、黙らずに問い続けていく。
歩くことをやめずに思考し続けていく「おれ」がいる。

討論の中で、指導書の“教材化のねらい”といったものに対し、物申しておいたほうが言い、という意見も出されました。
指導書にはよく「日常と非日常」「異化された日常」といったことが言われています。
しかし、日常と非日常を二項対立的にしてしまうと非生産的になる、という指摘もされました。
文学を日常とのつながりの中に見ない文学論、ポスト・モダン以後の文学論はそうしたものになってしまっている、
最後の部分の「彼」と「おれ」についても、指導書を見ると様々な論があるようです。
例会では、この最後の部分について、脚を持っていたときの「おれ」の視点とは違う、繭になったがゆえに見えてくる「おれ」の視点だってあるのではないか、という意見が出されました。
それは例えば、サッカーをやっていたA君が脚を折ってしまったとき、選手としてのA君は“消滅”しても、ベンチに坐っているA君にこそ見えてくるものがある、ということとつながっていくようなことではないのか。そうした例を引けば、高校生にも身近に理解されるのではないか。
参加者の多くが共感した意見でした。

さて、準備合宿です。
まずは二つの基調報告を聞きながら、思索し続けたいと思います。

〈文教研メール〉2010.7.26 より

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