芥川龍之介『羅生門」の検討2
文教研のNです。
先日の例会では、芥川龍之介「羅生門」後半(「それから、何分かの後である。……」から)を読み合いました。
前回に続き活発な意見交換がされましたが、今回の討論の流れは次の二つの点に絡んで深まっていったかと思います。
一つ目は、Iwさんが問題にした、「羅生門」は「Human Comedy(人間喜劇)」として描かれているのかどうか、という点でした。
「Human Comedy(人間喜劇)」というのは、佐藤論文(「芥川龍之介「羅生門」/「下人」の行方は、誰も知らない――歴史小説を熟読する」/「文学と教育」211)にも指摘されている、エッセイ「今昔物語に就いて」の中で芥川が「今昔物語」について語っている言葉です。
Iwさんはコメディとして、どれだけ生徒に媒介できるか、というのが課題だという指摘をされました。
それに対し、実際に授業で扱ってきた方たちからは、自分はどうしてもシリアスにやってきてしまった、という意見も多く出ました。
そんな中、私にとって印象的だったのは、Tさんの発言でした。
授業はキツキツでやってきてしまったけれど、「サンチマンタリスム」はキイワードとして働いている、と感じてきた。
この“感傷主義”がツッコミどころだろう。
もっと簡単に泥棒になるものは多いはずだが、「下人」にはそれとは違う感受性がある。
しかし、そこにからまるサンチマンタリスムの問題が、老婆との出会いの中で問い直されていく。
大切なものとそうでないものをふるい分けるのは喜劇精神の問題だ。
また、例会の最後にはHさんが整理して発言されていました。あえていえばそれまでの“暗くて重い”「羅生門」論に対し、関口安義氏は“明るい”「羅生門」論、“反逆・謀反”の論理に光をあて評価しておられる、しかし、そこで熊谷孝氏の提起した芥川論と比較してみるとどうなのか。そうした問題が改めて検討される集会にもなるのではないか。
そのことに絡めて、Iwさんが、“反逆の論理”と“センチメンタリズム”が結びつくと、70年代のような“非連帯”の方向へも進んでしまう、オウムの問題もそうだ、「そこはツッコンでおかないと」という発言をされ、その点からもきわめて今日的問題と感じました。
二つ目は、I さんがあらためて強調した、この作品は「疎外状況での個としての主体の確立の問題」とりわけ「倫理的行為の主体である人間」の問題が問われている作品だ(熊谷孝)、という指摘です。
「(歴史小説の方法をこの作家にもたらした意識の根底にあるのは……)倫理的行為の主体である人間は、歴史を通じて常に、善悪一如の存在として生と死を経験してきた。この人間的事実・真実を否定するとき、ひとはニヒリズムに陥るか、救いがたい自己欺瞞と偽善に陥るほかはない、とするその想念である。……しかも、今はもはや
単に善悪一如ではない。この作品の創造・再創造の行程において、この想念が内包している観念性は払拭され、何が善であり悪であり、また人間的なことであるのかという判断も、今はその人間が直面しているその場面の状況――疎外状況との対応関係において導かれる、というリアリスティックな姿勢に大きく変化を見せ始めている。むしろ善悪不二である。」(熊谷孝/『芥川文学手帖』「羅生門」1983)
この提起を考えていくために、たとえばI さんは次のようなことも指摘してくれました。
「この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許すべからざる悪であった。」という感覚はあえて言えば、支配層、主人の意識であり、その意識がそのまま下人の感覚として働いている場面である。
古代末期、中世社会の倫理において支配的なものは仏教的倫理であり、死体への屈辱的行為を含め「人間的である」という感覚はそれを土台にしてある。
奴隷が奴隷状況にあるためには、隷属するだけの主体が必要であり、それが宗教の存在によって支えられている。
しかし、今は「仏像や仏具を打ち砕いて」売っている時代である。
「人間的でありたい」という彼の若い感受性は、そのように支配的なものとしての仏教的倫理に絡め取られているが、しかしまた、“怒り”を通してそこに新しい出会いの可能性を生んでいく。
老婆の語る蛇を干魚といって売っていた女の話、そこにある民衆の声を、下人は自分のものとして受け止め、新たな行動に出る。
当然そこにはまた、葛藤も生まれるだろう。しかし、歴史を通じて人間が倫理的存在としてある、ということはそういうことだ。云々。
誤解もあるかと思いますが、そうしたことが話題になったと思います。
「偸盗」とのかかわりの中で読んでいくことの必要性も語られました。
全国集会へ向け、文学史の中にしっかり位置づけて読み直していくことの必要を、あらためて感じています。
【〈文教研メール〉2010.6.26 より】
|