N さんの例会・集会リポート   2010.4.10例会  
   
  熊谷孝論文「イメージの変革をこそ」の検討

文教研のNです。
先日の例会では、熊谷孝「イメージの変革をこそ」(三省堂「国語教育」12‐3/1970年2・3月号)
http://wwwsoc.nii.ac.jp/gsle/81kumagai/kumagai1965-74imagenohenkakuwokoso.html
(文教研HP「熊谷孝1965〜1974(昭和40年代)著作より」に掲載)
を読み合いました。

はじめに I.さんから資料として、「教育・子育てに関する意識調査」(クロス・マーケティング社/2010.4.1)
http://www.cross-m.co.jp/report/20100401education.html
の紹介がありました。
ポイントは「好奇心」について。
「親が大切に思う、子どもの可能性を広げる意識」の二番目に多いのが「好奇心」です。
ところがこの意識は子どもが小中高大と大きくなるにつれ下がっていき、同時に「子どもに好奇心を持たせる環境が整っていない理由」については小学校の頃は家庭の問題を重視している意識が、中高大になるにつれ「学校教育が好奇心を起こさせる内容でない」という意識が多くなります。
そして、「子ども自身がなりたい人物像」については「社交的な」「親しみやすい」1・2位で、「好奇心旺盛は」は20位です。
好奇心については、戸坂潤が「教養がない人間は好奇心がない」ということを言っていることが以前紹介されました。
では、その育むべき好奇心とは。

そうしたことも視野に入れながら、話し合いは大体二つの方向から話題になっていったかと思います。
一つは、認識論的視点から思考、想像、ことば、イメージ、そうした問題を見ていく必要性でした。
熊谷論文は、「思考力、これは慣用語である。」とし、思考力などというものはない、というところから始めています。
想像力も然りです。新指導要領にも「コミュニケーション力」ということが言われ、昨今、「〜力」ということがいわれますが、慣用語としてはいいにしても、認識論的に再確認する必要があるというところから、話は始まりました。
これらの事柄を一つの反映活動として再確認する必要性です。

そうした観点から見ていくと、教育の現場はそれらをバラバラに分断して、個別のスキルでその「力」をのばそうとし、結果、「反映活動の一環としての思考」そのものの活動は必要な方向への成長を遂げない、ということになっているのではないか。
例えば、私の子ども(この四月から小学三年)は現在、品川の区立小学校へ通っていますが、そこでは「生きて働く言葉の力」というスローガンを掲げて教科教育活動、また、小中一環の学校体制作りを行なっています。その方針に沿って保護者のモニターも含め教員同士の研究活動なども進められています。
指導案など授業展開のスキルは形式も定まったものがあり大変研究されています。しかし、私が見るに、言語の分野は「国語」、コミュニケーションは「市民科」(品川区独自の教科)というかたちで互いに相互乗り入れとはいいながら、実質は分離され、さらに学級活動(クラスのために討論、話し合いを保障するという時間として)の時間は小中一貫の名の下に前倒しの授業時間に組み入れられ減らされている、と感じます。
結果的に、“低学年の仲間関係における反映活動の一環としての思考”は疎外状況にある、と感じてしまいます。(結局、それは担任の先生を中心とした、教員個人の努力と力量にまかされている、と私など感じてしまうわけです。)
これは私の個人的な実感ですが、例会では社会科の教員免許が地理と公民を別々にしている例などもあげられ、総合性と専門性との関係など、今日、教育現場で起きていることの問題点を考える糸口となりました。

もう一つの方向は、作品の読みにおけるイメージの問題に関してです。
例えば、安部公房「事業」(『壁』所収)の子どもの肉をソーセージにするあたりのイメージが話題になりました。
即物的リアルさでイメージしようとすれば、とても考えられるものではない、という意見、作品の文脈で読んでいけば逆にありそうなこととして面白く読めるという意見などありましたが、結局、“現実にはないけれど、裏のイメージとしては”という読みに陥ってしまったら、文学の読みにはならない点があらためて指摘された形になりました。
その文体刺激によるイメージが、リアリティーを感じさせ、実際にそういうことがあると感じたときにショッキングなイメージに変わっていく、それが文学の読みです。
芥川龍之介「羅生門」の下人にしても、それが下人以外ではないということが同時に現代を生きる自分とつながりあう、そういう読みである必要があります。
だからこそ、熊谷氏が岩上順一氏の『歴史文学論』を高く評価しつつも、根本的に批判しなければならない理由があったわけです。

と、あらためて振り返ってみて、熊谷先生が基本的に敷いてくださった道筋と、そうした文学が担っている課題について、本当に自分自身の実践の問題としていくことの難しさ、面白さを感じた、というのが実感です。

明日は、「母国語文化への愛情が国語教育のありかたを決定する」(「文学と教育」84/1974.1)です。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/gsle/81kumagai/kumagai1965-74bokokugobunkahenoaijo-.html
自分自身の今、を考える上で、ますます楽しみです。


〈文教研メール〉2010.04.23 より


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