春合宿・『壁』総括・全国集会プログラム
文教研のNです。
今回の春合宿は、安部公房『壁』(新潮文庫/46刷改版/1988)を読みきり、また、Iwさんの提案を中心に村上春樹を読み合うという、新しい挑戦に満ちた合宿となりました。(今回のメールでは、『壁』総括と全国集会プログラムのみお伝えします。)
安部公房『壁』は、「バベルの塔の狸」の後半と第3部「洪水」「魔法のチョーク」「事業」を読み、総括討論をしました。
第3部はタイトルが「赤い繭」とあり、その中に「赤い繭」「洪水」「魔法のチョーク」「事業」の順に作品が並んでいます。
最初に I さんのほうから書誌的な確認がありました。
『壁』の作品群はすべて1950年に執筆ということですが、この年の6月には朝鮮戦争が勃発しており、その前なのか後なのかはその緊迫感において、重要な点にもなりそうだということ。また、「S・カルマ氏の犯罪」(3/5)「バベルの塔の狸」(5/13)だけれども、第3部の作品については5月以降11月までのどの時期に執筆されたか確定できないということ。(「不思議なチョーク」の中には「三十八度線突破!」という新聞記事が出てきます。)
また、作品の配列も色々変わっていますが、上に示した改版・新潮文庫では最終的に初版の単行本と同じ配列になっているということでした。
こうした条件を考えながら第3部を読んでいくと、追い込まれていく状況の中で、短編という形でさらに鮮明なイメージが描かれていっているように思えました。
「洪水」では、「労働者の液化」が進みます。この液化して浸透するイメージ、また、様々な形態を取る労働者のイメージとはどういうものか。
I さんは、戦後の最も暗い時期といわれたこの時期、その深い絶望感の中で、しかし、それでも諦めない姿勢というものが、その変形のあり方の独自性の中にないだろうか、と指摘しました。そして、この「洪水」という題名には、「わがなき後に洪水よきたれ」(「資本論」)という資本形の発想の裏を書くものがあるのではないか、とも話されました。
「魔法のチョーク」では、三島由紀夫「日曜日」(1950)との対比も含め、自分の内側に壁を作っていく人間の姿、壁の持つ二面性(身を守る側面と閉じこもる側面)の中で疎外されていく現代の自己疎外のあり方が話題になりました。印象的だったのは、Sさんの「アルゴン君が描いているのは“アメリカ的世界”、しかし、食べて生活しているのは、米であり日本の現実」という指摘でした。
「事業」は、分かりやすかった、読者として距離が取りやすく面白い、という意見が多くあがりました。その中で、井筒さんが指摘したこの工場主のイメージ、“悪玉資本家”という描写ではない、“戦後のアメリカ的独占資本主義(パクス・アメリカーナ)の魂の具現化だ”という指摘は、もう一度自分自身検証してみなくてはいけないと感じました。
総括討論の中でSさんは、安部公房が“文学とは現実発見の武器である”と言っているということを紹介されました。
現実を見詰めていけば絶望的にならざるを得ない、しかし、見ないわけにいかない、その絶望への道筋を付ける仕事が文学の仕事だ、とも。
安部文学の入り口が見えてきた、今回『壁』への取り組みでした。
それに続く、全国集会プログラムの検討では、この安部公房の言葉をテーマに取り入れました。
テーマ、日程は以下のようなものです。
・全国集会テーマ・
《高校国語教材」の検討 現実発見の武器として――芥川龍之介「羅生門」・安部公房「赤い繭」》
8月5日 <あいさつ>
<基調報告T>文学教育の必要性(題未定)
<基調報告U>芥川文学の教材化(題未定)
交流会
8月6日 芥川龍之介「羅生門」ゼミ
8月7日 安部公房「赤い繭」ゼミ
さて、その後、Iwさんの提案で、文教研の新しい試みとして村上春樹の文学に取り組みました。
最初に話してくれたIwさんの資料提供を含む問題提起は、非常にエネルギッシュで刺激に満ちたものでしたし、その後のやり取りも興味深かったので、あらためて報告したいと思います。
いつもながら、このメール自体が遅くなってしました。
明日には文教研ニュースが出る予定です。
申し訳ないですが、それを読ませていただいて、それと組み合わせてまた書かせてもらおうと思います。
【〈文教研メール〉2010.04.09 より】
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