安部公房『壁』―「序」(石川淳)、「S・カルマ氏の犯罪」
文教研のNです。
前回例会は安部公房『壁』(新潮文庫)、「序」(石川淳)、「S・カルマ氏の犯罪」(37頁3行目「ぼくはやはりあくまでも自分自身でありたいと思いました。」まで)を読み合いました。
はじめて安部公房の長編を本格的に印象の追跡をしていく、ということで、様々な角度から興味深い意見が出ました。
全部を拾うことはできないので、ここでは四点ほどに絞って紹介したいと思います。
まず、話題提供で I さんが出した指摘です。
朝、目が覚めたときに「何かしら変だ」と思った。しかし、それは急に今日起こったことだったのだろうか。それまでのこの男の日常はどうだったのか。実はこの男の日常自体がすでに変だったのではないか。
この切り口から、男の置かれた状況はどういうものか、読者自身の生活実感にこの作品のことばがどう響いてくるか、といった印象を確認していくと、だんだんとはっきりしていく問題があるように思いました。
その指摘につながる形で、「こうなったのにもキッカケがあっただろう」という発言をH さんがされました。
「新しく刷ったばかりの名刺」というから、新入社員か新しく昇進したばかり、これから会社人間としてスタートしようとしている人間がイメージされる。蔵書印を作ったり父親を「パパ」と呼ぶ、おそらく20代、ここまで順調にきた育ちのいい人物だろう。
「N火災保険 資料課」という肩書きだが、保険会社や銀行という職種は“空手形”でする仕事ともいえる。自分より上の世代の人間が、戦争で火災保険が無に帰してしまった話をしていたのを聞いたことがある。しかし、みんなその事実を忘れ、それが仕事になっていくし、そこに「極上のワットマン紙を奮発」する。
あわせてH さんが、「現在はこうした“空手形”に依存していく状況はもっと進んでいる」と指摘されたこと、また「自分が仕事を選ぶとき、こういう職業は全く選択肢になかったけれど」と話されたことは、とても印象に残りました。
さらに Iw さんの“マルクス”をめぐる指摘が、参加者に大いに刺激を与えました。
まず「S・カルマ」という命名は、マルクスを逆から読んだ音になっている、そういう言葉遊びになっているのではないか、という指摘。
さらに、この作品は「名前」をなくすという、それとしては実体がないはずの“ことば”が、実体化して自分たちを縛っていく、という設定だ。
こうしたもののつかみ方は、マルクスが『資本論』の最初を貨幣論、“貨幣価値”というそれとしては実体のないものが人間を縛っていくのはなぜか、という分析からはじめたこととつながった発想だと感じた。そういうことを共有できるスタンスの読者を前提としているということではないか。
(こうした一連の発言を聞きながら、やはり“現代文学”を読んでいくとき、“マルクス主義”を潜ること、“階級的視点”に立つかどうかということを抜きには見えてこないものがあることを、あらためて感じました。)
四つ目はこの男のメンタリティーの問題です。胸の中がただの空虚感でなく実際に「からっぽ」になっていたことに気づいたこと、そして、人も生き物もいない荒れ果てた広野の風景、その光景に涙する彼。彼の胸の「陰圧」はその荒野を胸のうちに吸い込み、さらにそこに住むべき「野獣」たちを吸い込もうとする、しかし、彼は「自分自身でありたい」と思うわけです。その部分を引用してみます。
やにわに胸の空虚感が内側から激しく胸壁をかきむしりはじめます。胸の陰圧は、ぼくの気持ちなんかどうでもよく、ドクトルの言うようにただその空虚を満たすために吸収することばかりを望んでいるのでしょう。だが、ぼくの胸を、それがいくら広野に過ぎないとはいえ、野獣たちの跳梁にまかせるなどということが許されるでしょうか。『何故許されないんだ?』と耳許で囁くものがありました。しかしぼくは強くかぶりを振って、じっと誘惑に抵抗しつづけました。ぼくはやはりあくまで自分自身でありたいと思いました。(36〜7頁) |
人間が人間らしく生きるとはどういうことなのか。前回は、ここで終わりましたが、だんだんとこの男の思いに共感していく自分を発見しながら、作品に“引き込まれて”行きました。
さて、この続きは、明日の例会を楽しみにしたいと思います。
【〈文教研メール〉2010.01.22 より】
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