N さんの例会・集会リポート   2009.12.26-27 冬合宿、総会  
   
  戦後現代文学としての安部公房「赤い繭」、石川淳「アルプスの少女」

文教研のNです。
昨年末、12月26・27日、例年通り冬合宿および総会が行われました。
2009年という年について印象深くことばにしてくれたのが「文学と教育」210号の編集後記でしたので、ここに今一度紹介させてもらいます。

 二〇〇九年。文教研にとっては、正に画期的な年となった。文教研創立50周年の節目を経て再スタートをきった記念すべき年であり、文教研が研究対象としてきた異端の文学者太宰治の生誕100年に当たる年であり、そして、わが文教研初代委員長の福田さんの亡くなられた年ともなってしまった。
 福田さんの半生は、文学教育の実現と研究とに捧げられたものであった。そうした福田さんの半生を偲びつつ、本号では特集を組むことで哀悼の意を表したいと思う。併せて、福田さんの愛した『かさじぞう』のゼミ記録(2008年秋季集会)を弔花に代えて捧げたいと思う。(S)

襟を正し2010年へ向けての橋渡しとして、冬合宿では新たな現代文学への取り組みを始めました。
扱ったのは、安部公房「赤い繭」(1950)、石川淳「アルプスの少女」(1952)の二作品、高校の現代文の教科書にも載っています。
あわせて、安部公房「猛獣の心に計算機の手を――文学とは何か」(1955/エッセイ)、安部公房・乾孝「芸術と言葉」(1958/対談)を読み合いました。

安部公房、石川淳の作品を文教研で印象の追跡するのは、ほぼ初めての経験です。
ここでは作品そのものの検討の中で出たことはニュースに譲り、前提として熊谷孝『日本人の自画像』(1971)の最終章、「戦後へ」の部分を紹介して、新たに読み始める一歩としたいと思います。

熊谷氏はその文章の中で「五〇年代というこの時期が、戦後文学を二分して現在に直結する時期」と位置づけ、三島由紀夫「日曜日」(1950)、大岡昇平「野火」(1952)、野間宏「真空地帯」(1952)、石川達三「熔岩」(1953)、「人間の壁」(1957〜9)といった作品に焦点を当てます。
これらの作品を紹介する中で、氏が歴史的場面規定としてあげている事柄をメモしてみます。

1949年1月総選挙で共産党が35名当選 4月団体等規制令(共産党取締りのため?) 
 7月下山事件、三鷹事件 8月松川事件(国鉄三事件)
1950年3月大蔵大臣池田勇人「三月危機には、中小企業の一部倒産もやむを得ない」
と発言、税金旋風に破産・倒産続出
 6月共産党幹部追放、ダレス来日、朝鮮戦争開始
1952年単独講和の発効(前年に講和・安保両条約批准)、血のメーデー事件、破壊活動防止法の施行、警察予備隊が保安隊へ
 プロレタリア作家・鹿地亘が国民の抗議で釈放、国内の基地から朝鮮戦線へ行くアメリカ軍用機の爆音に「報復」の不安を感じる日々

こうした出来事の流れを踏まえ、「大衆社会的状況と現代的疎外」という基本的な切り口から課題を探っていきます。
「いっさいがっさい商品としてしか存在し得なくなっている」結果、「『自由主義の文士』と『コンミュニズム系の文士』との間に、戦前にあっては思ってみることさえ不可能だったような交流の場が」大規模に生じたこと。それに加え、「五十年代以降においてますます顕著になって来た大衆社会的状況の中で、かつてはひと握りの文学青年や文学老人のものであった文学が広汎な国民大衆のものになって来た」こと。
「それは、一方から言えば、文学人口の増大ということであり、他方からすれば文学の質の変容」であること。また、「現代的人間疎外――戦後の独占資本による疎外状況の具体的なあらわれ」「現代文学は、このような現代的疎外との対決の任務を負っている。」とも。

「赤い繭」の「自分の家」の問題と“マイホーム主義”の問題。「アルプスの少女」でなぜクララとペーテルは山にとどまらないのか、そして、二つの作品の表現形式の問題など。熊谷氏が提起した課題意識に照らしてみると、よりはっきりと「戦後文学を二分して現在に直結する」という意味が見えてくる気がします。

以上、簡単なメモをしてみました。
我々が今まで読み合ってきた歴史科学協議会・編『日本現代史』、そして湯浅誠『反貧困』などを下敷きに、ケストナー文学を扱いながら考えてきた「現代市民社会の文学」という課題と照らし合わせ、あわせて熊谷氏の『芸術とことば』以後の芸術認識論を振り返っていく。そうした多角的な作業を通じて、これから取り組む安部公房や石川淳についても、確実に新しい一歩を踏み出せそうな予感がします。


〈文教研メール〉2010.01.09 より

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