N さんの例会・集会リポート   2009.10.10、10.24例会  
   
  太宰治「女生徒」を読む(続)

文教研のNです。
新型インフルエンザの猛威は我が家にもおよび、二年生の子どもが40度近い熱を出しました。
幸い順調に回復し、結果的に漢方薬だけで山場を乗り切りましたが、ともかく“未知”のものは恐ろしいです。
さて、そんなこんなで前回例会のまとめをお伝えできずに、秋季集会前最後の例会である先日の例会を終えました。
ここ二回の例会をふまえ、秋季集会へ向けての課題をいくらかでもお伝えできればと思います。

一つは彼女(太宰治「女生徒」の「私」)の眼に映る大人の姿についてです。
第二パートの労働者たち、本来の労働者とは違う、その精神の暴力性。席を横取りして平然と新聞を読むサラリーマンの中にあるずるさ。
また、それらと対比して好ましく感じられる「思索家みたい」な植木屋の姿。
様々な教師たち、嫌悪の対象としての「汚い」厚化粧の女たち。
そして、第三パートの今井田家族への強い反発。
この「プチ・ブルというのかしら。小役人というのかしら。」(51頁)という今井田への反発の中身はもっと深める必要を例会でも共通確認しました。

また、「私」が主語になっているところと、「私たち」という言い方になっているところがあること。
第三パート、月を見ながらお洗濯をする場面「私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの」(66頁)など印象的です。
その「私たち」という思索の仕方について。

また、「きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。」(67頁)や最後の「あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?もう、ふたたびお目にかかりません。」(69頁)という、ある種のギャップの中で読者をドキリとさせる「私」の語り口について。

集会自体ではあまり話題にできないかもしれませんが、有明 淑(ありあけ しず)の日記との対比も話題になっています。
彼女が熱心な太宰読者であり、彼女の日記の文体を太宰文学がはぐくみ、その彼女の文体との対話の中から「女生徒」という文体が生まれ、それがまた、彼女や彼女たちを支えていく。そうした、対話の構造の中に、この「女生徒」の文体があること。
文教研のこれまでの積み上げでこそ解明されていく問題が出されています。

などなど、出されている課題の一端です。
例会ではまだまだ掘り下げられていないという認識の下、今期秋季集会は私たちにとって大きな「例会」として、みんなで深めていこう、という共通確認で終わりました。
ということで、秋季集会での討論を楽しみにしたいと思います。


〈文教研メール〉2009.11.5 より

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