N さんの例会・集会リポート   2009.9.26例会  
   
  太宰治「女生徒」を読む

文教研のNです。
例会報告が遅くなってしまいました。
前回は、秋季集会へ向けて太宰治「女生徒」(角川文庫『女生徒』所収)を読み始めました。
今日はこれから次の例会に出かけていく朝ですが、もしお出かけ前にお目にとまれば、記憶の糸をたどる一助になるかと、私のノートのメモの一端をメールします。

冒頭から三頁ほどの場面について。
もし映画か何かでこの少女の行動だけを追うならば、朝、目を覚まして蒲団の中にいるところと鏡台の前に座って自分を見詰めているだけの場面。
しかし、そこにmeとIとの分化、三者関係の中で自分を対象化し、<私の中の私たち>が形成されていく過程が描かれる。
あるいは別な言い方をすれば、自分の感覚を言葉にしようとする、感じた気持ちを表現しようと探っていく、感じっぱなしにしておかない、思考停止しない、つまり対話する相手がいる……、そういう作品だ。

「だけど、やっぱり眼鏡は、いや。」(19頁)
眼鏡のよさ、眼鏡を取ってみると物も人も優しくきれいに笑って見える。
しかし、眼鏡は人の顔から生まれる色々なものをさえぎってしまう。……
美しいものを見たい、という気持ちを持つ少女の、しかし、そこに浸りこむことは拒否する姿勢、そして、眼鏡をかけて表情をなくしていくことへの嫌悪。
しかし、眼鏡をしている自分を拒絶するのではなく、「眼鏡は、お化け。」(19頁)というとらえ方。
そうしたこの少女の感受性で見えてくる世界が描かれていく。
(こうした議論を振り返っていて、湯浅誠さんが『反貧困』で紹介していた「ヒンキー」のことを思い出しました。「お化け」つながりで思い出したのですが、しかしあのヒンキーというとらえ方、今一緒にいる親しいヤツとしてちゃんと存在を認め、しっかり成仏させてやろう!というとらえ方には、つながるものを感じました。深刻な困難と持続的にまっすぐ向き合う、ユーモアを支えとした感覚が、そこには通じているのだと思いました。)

やりきれなさが一杯になったとき、センチメンタルになりそうなとき、気分を変えて自分を突き放していくユーモア感覚。
それは批判精神につながっていくものだろう。
相馬正一氏は「有明淑の日記」との比較で、社会批判的な部分がカットされていることについて「感受性豊かな一少女の、大人社会に対する漠然とした不安と、美に対する夢想・憧憬のみを抽出し、それらを巧みに組み合わせて「女生徒」一篇を創作したのである。」(「太宰治の『女生徒』と有明淑の日記」/資料集・青森近代文学館)
と述べているが、はたしてそういえるだろうか。

などなど、話題は尽きませんでした。

「太宰生誕百年」ということで、この二週間の間に太田治子さんが「斜陽」について、角田光代さんが「女生徒」について話している番組を見ました。
どちらも「私のことを語っている」という感想を述べていました。
よくある感想と言えばそれまでですが、その読後感を手放さずに考え続けてきた二人の意見には、参考になるものがあるような気がします。
<希望を失いかけている人たち一人ひとりへむけての励ましの文学>として、
この時期の太宰の文体がどういう性質の文体なのか、今、文教研だからこそ出来る仕事があると感じました。

〈文教研メール〉2009.10.10 より


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