N さんの例会・集会リポート   2009.4.11例会

    再読、有吉佐和子『ぷえるとりこ日記』 (第一回)



文教研のNです。

先日の例会では、全国集会(統一テーマ「〈私〉の中の〈私たち〉を考える」)へ向けて、有吉佐和子『ぷえるとりこ日記』の第一回の検討会が行われました。
ほぼ前半部、実地調査が終わりサン・ユアンへ戻ってきたあたりまで読み進めました。話題提供者はKoさんです。

討論は、様々な角度から話し合われました。
ここではジュリアのメンタリティーを軸に、日記という文体について話題になったことも含め、紹介したいと思います。

話題提供者の出した問題の中に、ジュリアがラハスの食料品店で自分のために買い込んだ缶詰をなべ一杯のスープにしてしまうところをどう読むか、ということがありました。結局、ジュリアはルイスたちのためにスープを作ったのかどうか。

この問題を話し合う中で明らかになってきたことは次のようなことだったと思います。
ジュリアの発想を善悪で見てしまうところへ落ち込むと見えなくなる面がある。
確かに彼女の発想は基本的にアメリカ国家の代理人、というところがあり、きわめて自己中心的な合理主義だ。
しかし、こうした場面の中には、「委員長としての自分」(me)という責任感のもとに、ある種の思いもかけない自分(I)が出てきている面があるのではないか。それを可能性と呼べるかどうかは別だが、そこに20代の多感な感受性が描き出されている。
ジュリアのそうした矛盾は、“笑い”を伴って彼女の面白い面を浮かび上がらせる。
彼女という人間に興味が湧いてくるところだ。

ジュリアの発想については、60年代、ベトナム戦争真っ只中でイデオロギー化してしまった自由と民主主義の姿があるのではないか、
という指摘もされました。
形骸化した自由と民主主義を受け売りして、そのまま他民族へ押し付ける、それが彼女の「委員長として」の発想でもあるでしょう。
しかし、この作品はそうしたイデオロギー的な面を上記のように、それだけで描いてはいない。
崎子の眼に映るジュリアは単純で「気のいいアメリカ女」でもあるわけです。

日記という形式は、それを書いている本人にとっても書いたとたんにその姿が自分にとって対象化される(meになる)面があります。
それがさらに一人ではなく二人の日記形式になることで、ジュリアから見た崎子、崎子から見たジュリアの姿となり、さらに読者にとってはその先にジュリア像、崎子像が見えてくる構造になります。
その対比関係を通して、異文化の中で育った人間の姿が見えてくるところにこの作品の構造的な面白さがあるだろう、ということも指摘されました。
この作品が用意してくれているmeとI の視点についても、もう少し検討の余地がありそうです。

会の中で、この作品が“喜劇”の要素を多分に持っている、ということがあらためて強調された場面がありました。
題名からして、「ぷえるとりこ」とひらがな表記されることで、「プエルトリコ」=「豊かな港」という意味と現実の貧しいプエルトリコとの対比がある、など。
その折、「会田崎子」という名前にも「間を裂く子」というイメージが重なっていないか、という意見が出されました。
つながりたいのにつながらない、というニュアンス、そうした逆転されたイメージがないか、という意見でした。
実は例会後、渋谷のある店でご飯を食べながら、こんな意見も出たんですよ。
「あれはむしろ、間に咲く子、なんじゃないの?」

どうでしょうかね。

ともあれ次回は後半を読み進めます。


〈文教研メール〉2009.4.22 より


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