| 有吉佐和子『非色』を読む
 
 
 
 文教研のNです。
 有吉佐和子『ぷえるとりこ日記』(1964)に続けて、前回は『非色』(1963)を読み合いました。
 
 この作品は、戦後俗に「戦争花嫁」と呼ばれた、黒人兵士と結婚し子どもを持つことになった女性、「笑子」の眼を通して描かれていきます。
 
 話題提供者のKaさんは、
 @ 1〜5章 東京からニューヨークへ
 A 6〜12章 1953年から1958年までマンハッタンで
 B 13〜15章 ブロンクスビルでメイド生活
 の三つの部分に分けて話を進めてくれました。前回例会は、Aの話題がいくつか出たところで終わっています。
 
 最初にKaさんは、熊谷孝『井伏鱒二』から部分を引き、この時期の井伏文学の課題につながりあう課題意識を感じたと話しました。
 以下にそれを紹介します。
 
 『橋本屋』『山峡風物詩』『復員者の噂』この三部作(?)に共通している点は――というのは、『かきつばた』『黒い雨』などとは共通していない点は、ということにもなりますが――、個人個人における<性>と<社会性>とのかかわり合いの問題がクローズ・アップされ、それが統一的にとらえられている点でしょう。統一的に、というのは、性の問題が単に性の生理や心理の問題としてではなくて、社会的人間の、まさに性の社会性の問題としてつかまれている、という意味です。話題提供の中でも指摘され、討論の中でも笑子の人物像として話題になったのが、渡米を決意する場面でした。
 人間が人間でありうるための条件というものが幾つかある、と思うのです。その幾つかの条件は相即的・相関的に絡まり合っているわけですから、その条件が次々に奪い取られるとすると――それを疎外というのですが――、疎外がある限界点に達すると、人間は人間でないものになってしまうわけです。自分の人間を見失うことになるのですね。言い換えれば、奪われたひとつの条件を自分に取り戻すために、今度は別の他の条件――人間の条件――を自分で踏みにじってしまう、という自己疎外をやり出すようにもなるわけです。人間とはそういうもののようです。
 
 今度の戦争のあり方は、銃前・銃後を問わず、自分がどこまで人間であることを守り通せるか、という自己の人間に対する実験を庶民大衆一人ひとりに強要した、そのような性質のものであった、というのが、井伏の戦争観のようです。言い換えれば、井伏の文学的イデオロギーにおける戦争というものの形象は、そのようなものであるらしく思われます。(熊谷孝『井伏鱒二』245〜6頁)
 
 
 メイドとして働く先で受ける屈辱、しかし、それにも「こんな場所にいてやるものか」とはならなかった彼女が、娘メアリイがいじめっ子たちを前にゆがんでいく姿、それを眼にしたとき「アメリカに行こう」と決意します。
 
 「……メアリイの横顔は私の全身を射すくめていた。メアリイの眼には憤怒と怨嗟が黒々と宿って、残忍な鈍い光を放っていたのだ。」
 
 「アメリカへ行こう。トムのいるところへ。この考えは、このとき突然に湧いたものである。……この日本で、私たち親子が幸福になることが考えられないとしたら、私たちは出て行くよりないのだ。リー夫人はニューヨークに百万人のニグロがいると言った。その中へ入れば、メアリイは友だちを持つことができるだろう。無邪気であるべき子供心に今のような陰惨な復讐を思いつくことなど決してないだろう。」
 
 討論の中で、こうしたところに笑子の原点はある、という指摘がされました。
 愛する娘の「復讐」する姿、それを見たとき、ここに置いておくことはできないと感じるメンタリティー。
 つながれる仲間がいない中でゆがんでいく娘。何とかしなければならない。
 人間らしく生きるための条件を守るためにはこうするしかない。
 まともに生きることを考え続けているからこそ瞬時に行動する、そうしたメンタリティーが描かれています。
 
 さらにABと、この笑子の眼を通して、アメリカ社会の中での様々な人間疎外の姿が、見つめられていきます。
 笑子はこの作品で「狂言回し」の役割をしているだろうという指摘もされました。
 
 この作品がこうした疎外・自己疎外の課題を人種、階級、文化、性と実に多面的に描いていることが見えてきます。
 
 さてAはかなり長い部分ですが、こうした方向で続きを読み進めます。
 
 
 【〈文教研メール〉2009.2.14 より】
 
 
 
  ‖Nさんの例会・集会リポート‖前頁‖次頁‖ 
 
 |