N さんの例会・集会リポート   2004.07.10 例会
 
  
 〈変装・変身〉の持つ意味/語り継がれたヒトラー・ジョーク


 文教研のNです。

 先日の例会は、前半、『ケストナー手帖(仮称)』「二人のロッテ」担当・Aさんの話題提供。後半、全国集会・基調報告A「ケストナー、1938年前後」I さんの報告、という構成でした。

 前半、Aさんは既に原稿化されていた様子でした。さすがですね。(実はこの日、既に完全原稿を提出された方が若干1名。名前は明かされませんでしたが、「おお!」という感嘆の声がもれましたよ。)で、色々と情報の詰まった中身はいずれ手に取る事が出来るという事で、話題になった一点をご紹介します。

 それはユーモア三部作や『オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』で話題になった、<変装・変身>という問題です。口火を切ったSさんは、そこで重要なのはその変装・変身が「意識的」なものであることだ、という点を指摘されました。

 この主題的発想は、『点子ちゃんとアントン』で点子ちゃんの空想癖、お芝居癖という形で現れたものと通じます。点子ちゃんの演技が持っているある歪み。しかしそれはアントンと出会う事で、その想像力がもたらす可能性、芸術の持つ可能性へと変革されていきます。

 ロッテとルイーゼがお互いを演じる事で見えてくるもの。『二人のロッテ』は戦後の作品ですが、その原型は戦中に作られている。大きな圧力が加わったとき、本当の自分をゆがめずに生きていくために選び取られる「意識的な」<変装・変身>。そうした発想が、この戦後の作品の中にも息づいているのではないか、ということでした。

 後半のI さんの報告は、整理された資料に即した、実に内容豊富で興味深いものでした。これは全国集会に参加していただくよりしようがないですね。しかし、これでは全然、何もアピールしていないのと同じなので、そのポイントについて、私のつかめた範囲で二点ご紹介しておきます。

 まず一点は、ナチス・イメージについての問題です。ナチス政権が持つ本質は、歴史的に明らかにされてきています。しかし、ナチス政権下に生きた人々にとって、ナチスのイメージとはそう単純なものではありません。そのナチス・イメージの変遷について、I さんは望田幸男『ナチスの過去と現在』(新日本出版2004/4)を下敷きに丁寧に紹介されました。

 この例会の日は、丁度、参議院選挙の前の日でした。政治とイメージ。私たちは今、どういう闘いを迫られているのか……、個人的にはそんな事も考えました。I さんは、この本が日本の鏡としてのドイツ、という視点から書かれていていい本だ、と紹介されていましたが、是非、読んでみたいと思いました。内容は、こうご期待。

 さて、もう一点は、ナチス時代に存在したヒットラー・ジョークというものの存在でした。これらは密かに人々の間で語り継がれたものです。この点についても、井筒さんは資料に基づいて紹介されました。こうした精神、伝統、文化、そうした中で培われてきた芸術精神としてのケストナーの<喜劇精神>。後の質疑の中で、Sさんは、この時期、ソ連ではバフチンが、日本では戸坂潤が、そして、井伏、太宰が登場してくる、そこでは「目的意識化」された技巧、「計画された」<笑い>が問題にされてくるのだ、と語られました。<笑い>の復権。そこには、今日、私たちを真に解放してくれる大切な契機があるようです。

 さてさて、全国集会と『ケストナー手帖(仮称)』出版へ向けて、文教研の暑い夏は既に始まっています。〈文教研メール〉より


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