N さんの例会・集会リポート 2004.06.12 例会 |
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「今、なぜ、〈ケストナーと太宰〉か」をさぐる 文教研のNです。
先日の例会は、前半は広島講演の報告、後半は太宰治『禁酒の心』の印象の追跡でした。 6月第一土曜、広島基礎講座が開かれました。講師はI さん。ケストナー文学について『動物会議』の小学校への教材化を射程に入れて話されたそうです。とはいえ、20名ほどの参加者のなかで、現役の教員は3人。参加したくても、忙しくて参加できないというのが実状だということでした。 私が印象に残ったことは、二つありました。一つは、「今、なぜ、ケストナーか」という点です。学習指導要領でいわれる「伝え合う力」。しかし、一方において、公立学校では「君が代」「日の丸」についての議論などさせません。タブーのある「伝え合い」とは、何なのでしょうか。 また、インターネット教育の問題。小学生のチャット上でのリアルタイムな会話。しかし、それは果たして、自分の人格の責任においての対話になっているか。言葉は場面規定を誤れば、全く違う働きをしてしまいます。その困難さに無自覚なままに、子どもたちに与えられる物理的なインターネット環境。ケストナー文学は、本当の<伝え合い>の出来る人格を育てる糧となってくれるはずです。ケストナー文学を必要としている今日日本の教育現場、こうした場面規定の問題が一つでした。 もう一点は、小学校の推薦図書(?スミマセン、記憶があやふやです)にケストナー『小さな男の子の旅』が入っているということでした。この作品は、ケストナーへの入り口になる。男の子のしぐさやコトバのなかに、彼の人生が見えてくる。どういう場面の中で発した言葉なのか、この作品は具体的な場面の中で、具体的な言葉のあり方を見せてくれる。そして、この少年、この作品のもつ、本質的な明るさ。対話精神の原点として、『動物会議』へつなげていける作品ではないのか、というのがI さんの指摘でした。 実践的に取り組もうとしたとき、どんな入り口が見えてくるか。自分の現場では……。そんな事を考えました。 後半は、『禁酒の心』です。 Ayさん、Nnさん、同時代の他の短編と比較したときの冒頭の印象について、その人間回復への決意表明がはっきり出ている作品ではないかという点を指摘されていました。人間が人間でない者にさせられている状況。酒屋の親父のふてぶてしさに、「校長」を感じる、というコメントをつけられていたのは、多分、Nnさんでしょう。 私自身は話題提供で、前回、話題になった戸坂潤の「笑い」に対する分析を何とか自分なりに作品の中で具体的に考えようとしたのですが、実力が遠く及ばず、という感じでした。アプローチだけ言いますと、冒頭の一段落を、@当時の検閲 A当時の読者 B本来の読者はそれぞれどう読むだろうかという事を、対比してみようとしたわけです。 @を考える事でこの時期の太宰の作家としてのしぶとさを、Aを考えることで戸坂氏のいう「第二の代表的なユーモア」を、そしてBを考えることで戸坂氏のいう「第三の批判のユーモア」ということを、実感しようとしたわけですが……。「笑い」を語るのは難しいです! さて、いつもなら例会が終わって2、3日の内には例会報告を配信するのですが、今回は遅くなってしまって、申し訳ありませんでした。物理的事情もあるにはあったのですが、もう一つは精神的事情。やはり自分が話題提供して、結果、「いかんなあ、これでは」と思っていると、つい、その事実から目を背けたくなるんですよね。こういう時こそ、自分の中にある〈喜劇精神〉らしきもの、どうもひ弱で頼りなくはありますが、それを叱咤して、ちゃんと全身、「姿見」に映してみないとイカンですね。 結果。うーん、やっぱり無駄な贅肉が多い! 【〈文教研メール〉より】 |
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