声明
         教育基本法の「改正」に強く反対する


 およそ半世紀前、内外の尊い血の犠牲によってあがなわれた日本国憲法とその付帯文書たる教育基本法が、一部政治勢力によって、今やその基本的理念が空洞化・抹殺されようとしている。私たちは、この状況を深く憂慮するものである。
 この、教育における憲法的基本法の制定当時、文部省(当時)によって作成され、広く国民に指示された「教育基本法の解説」は、その冒頭に「明治維新からこのかたわが国の教育には、一貫して国家主義的色彩が濃厚であった。」と述べている。すなわち、「国家有用の人物を練成する」ことを唯一の目的とし、全国民の国家への忠誠を強要、その結果国内的には国民の諸権利を抹殺する絶対的な天皇制の確立、対外的には際限のない軍事的侵略をもたらしたのであった。
 この過ちを再び繰り返すことのないように、教育基本法は、前文において、不戦・平和主義の日本国憲法の意義を説き、かつ「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と述べたのである。当時、敗戦後の廃墟の中にあって、私たちは、「貧しくとも平和で文化的な国を創るのだ」と語り合い「教え子を再び戦場に送るな」と誓いあったのであった。教育基本法は、そのような私たちにとって、正に「導きの星」であり、その条文には、絶対的平和主義に裏打ちされた、基本的人権尊重の方針が脈々と述べられていた。
 日く、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」(前文)
「教育は、人格の完成をめざし…個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(第一条)
――だから、「学校という場は、一人ひとりの子どもをわけへだてなくたいせつにする所なのだ」と私たちは胸に刻んだのだった。
 教育基本法は更に続けて、学問の自由の尊重(第二条)、すべての差別の禁止(第三条)、男女の同権(第五条)、教員の身分保証(第六条)を説き、特に、戦前の教育が国家によって犯罪的に歪曲された事実を克服するため、「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に責任を負って行われるべきものである」(第十条)と明記した。
 制定後五十年、この基本法の精神がそのまま実行に移されていたら、日本の教育はどんなに輝かしいものになっていただろうか。子どもたちにとって、学校が、誇りと喜びに充ちた生活の場であり得たであろう。
 教育基本法「改正」論者の多くは、日本の政治・経済の歪みを背景とする現在の学校の困難性の原因が教育基本法の内容にあるとし、「愛国心」「心の教育」の名のもとに再び国家への忠誠を強要しようとする。
 しかし、事実は、歴代の教育行政が、教育基本法の精神と逆行する諸法制を強行し続けたことが、その根本的な原因であったのではないか。教育行政の中央集権化、教育内容の国家統制をはじめとしてその例は枚挙にいとまがないではないか。
 特に最近では、「新自由主義」の名のもとに、人間性を無視した耐え難い競争主義を、あらぬことか教育の世界に持ち込み、子どもたち同士を競わせ、教師同士、学校同士を争わせ、それをもって「活性化」と称し、それへの批判に対しては、苛酷な国家主義的管理主義と、老獪な世論操作によって抑さえ込もうとする政策が露骨に強行されるようになった。
 これらの施策は言うまでもなく教育基本法違反である。しかしながら、今、この基本法の「改正」が法的に成立すれば、これらの悪法が今までよりも一層、あたかも「鬼の金棒」の如くに荒れ狂うのは火を視るよりも明らかである。
 以上の理由によって、私たちは、教育基本法「改正」に強く反対する。加えて、行政当局に対して、教育基本法に違反する諸法制を、教育基本法に忠実な構成に改変することを要求する。さらに−私たちはどのような状況にあろうとも、教育基本法の精神を胸に刻み、平和と民主主義に徹し、すべての子どもの生存権・発達権・学習権保障のため、すべての教師、父母・国民と連携して、愚直に歩みを進めることを誓う。
 右声明する。
    二〇〇三年七月八日
                   日本民間教育研究団体連絡会

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