文教研のプロフィール |
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《座談会》 国語科教育研究の到達点と今後の課題
=討論の柱= Ⅰ 小・中・高をつらぬいて流れる新教育課程、国語科の思想について、わが団体はこう考える。 Ⅱ 権力側が考える国語教育(~国語科教育)の思想・構造にたいして、わが団体はこのような実践で対決する。 Ⅲ これからの課題 ・わが団体の実践・研究の展望 ・われわれの側にある国語教育(~国語科教育)の内容・方法に関する意見の相違ないしは対立をどうとらえ、 どう克服するか。その原則を明らかにする。 司会 こんどの教育課程・国語科の思想というものを各団体がどうとらえているか、まずそこから話し合っていただきましょう。 児言研 わたしたちは、学習指導要領を「エセ科学」と、とらえます。従って、「エセ科学への対決」ということを基本的に考えます。エセ科学というのは、一見、科学的なよそおいをしながら、反科学的になっているということです。いままで技術主義というと、だいたい民間の研究団体のなかでは、内容を無視している、あるいは内容軽視という意味で、内容重視と対立させた意味でやってきた。 たとえば主題をとらえる、要旨をとらえる、いろいろありますね。それを、思想内容と別個で、どちらかといえば、無思想的内容として軽視してきました。方法論だけだから――と無視する傾向があった。 しかし、いまは、無思想、無内容と規定してはいけないととらえるわけです。無内容という内容、無思想というそれを、教えているわけですから。 日生連 わたしたちは、学習指導要領に対しては、文部省の言語観は基本的には従来のものとかわっていないと、とらえるわけです。指導要領では言語と思考、言語と認識の関係を無視します。そして、例の「読む、話す、聞く、書く」といった言語の現象をとらえ、その現象場面で教育しようとしているわけです。こうした経験主義には対決していかなければならない。 第二に、文部省は、言語をコミュニケーションの側面でしかとらえていないけれど、コミュニケーションでとらえているだけに、子どもの意識、感情を、生活や事実、実態から切りはなし、権力がつくりあげた知識、感情、生活態度を、体制のなかにすっぽりはめこもうと意図的にすすめていると思うんです。 たとえば、紀行文は、現政府の経済政策の賛美であったりというわけですね。 文教連 読書運動、児童文化運動を軸において仕事をやってきています。指導要領の問題をみるとき読書指導、題材選定の基準というところが問題のようにおもいます。 文学教育を教室でがっちりやるとしても、それで十分ではなくて、幅広い場を用意していく、そのことは必要なことであるわけです。幅広く読書の経験をさせる。おおいに子供に本をよませながら同時にそのことを通して認識をあらためていく、そういう認識論的な観点を強くもっていきながらすすめていきたいとおもっています。 日文協 日文協の国語教育部会は、ひとつにガッチリかたまっているわけではなく、ルーズなあつまりです。ですからこういうテーマをだされたときわが団体は、ということは非常にこまったわけですね。いちおう、一の場合はよいのですけれど、二の以降の問題はまったく同一視点でこたえることはむりで個人的な見方になってしまいます。 一の問題についても個人的見解がはいるのですが、教育課程・国語科についていうと、基本的にはその底に技能主義と排外的民族主義が流れているというふうにとらえています。 技能主義というのはいまさらいうこともないとおもうのですけれど、やはり独占資本の要求というものを内容にふくみながら、読み、書きができる人間、便利な人間をつくっていこうとしています。 もうひとつは小学校の学習指導要領の十項目のなかにはっきりいっているように「国を愛し、国家の発展に尽くす」という排外主義ですね。 さっきいったように母体が文学研究団体ですから専門的な形で国語教育についてまとめた見解ではないのですが、中学以上の古典のとりあつかいが、問題になってきますね。排外主義的民族主義の線がはいってくると考えられます。 文教研 ここ一、二年のところ夏季集会の研究テーマを言語観と文学観の確立というところにおいてきました。 われわれの民族のあすを担う子供たちの国語教育を進めていく場合に、体制側の言語観、あるいは文学観ときっちりと対決する言語観、文学観をもたなければ民主教育は守れないというふうに考えています。 体制側の言語観というのは言語技術主義、あるいは言語実体説というふうなものになっているというふうに考えます。いわゆるコトバ主義とか、汎言語主義の問題です。 そういう考え方の上にたって言語学的なところまでふくめてそれに対決していかなければならない。いわゆる第二信号系の理論にもとづいて正しい言語観をつちかう必要がある。文学論の方では既成の「生哲学」にもとづいた文学理論の再興ということがみうけられますが、そうではなくて、毅然とした唯物文芸学の理論を深くつきつめていくなかで運動をすすめていこうと考えているわけです。 日作 指導要領のなかには、能力主義という名の差別主義がある、ということをまずはっきりとおさえなければならないと思います。国家・国益を中心としたイデオロギー教育の方向に差別的編成をおこなおうとしているということです。そして、自分たちのイデオロギーを、子どもたちのなかにスムーズに入れていくために、技術主義をテコとするわけです。たとえば、スキル作文とかコンポジション理論などを「近代的」作文指導の方法として重視してきているわけですね。現実をリアルに見させずに、自分たちのイデオロギーをおしつけ、その方向でのものの見かた考えかたを強制してきている、といいきっていいのではないでしょうか。 |
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演教連 わたしたちがめざしているのは、主として教科外活動としての国語教育と無関係ではありませんので、一言いわせてもらいます。国語科のなかにいままで劇の教材があったわけですが、今度の指導要領のなかでは劇というものを全部落としています。 これまでは話す、聞くという領域に限定して、いわゆる先ほどからいわれている実用主義的な技能主義的なそういう考え方から劇というものが採用されていたのですが、こんどの指導要領ではそれすらも消えてしまっている。 やはり日作の田宮さんがいわれたように子どもたちの生活のなかから、表現活動、創造活動をのばしていこうというわれわれの考え方と、まったく対立する指導要領が出されているわけです。 もうひとつは教科外活動の、われわれからいえば軽視なんだけれども、中学校の指導要領をみると朗読ということがくわしく載っているわけですね、しかしどういうのが朗読の内容ですかね。しかも、どういう意味をもたせて朗読と位置づけているかということについては、なんにもふれていない。 やはり田宮さんがいわれた国家イデオロギーをおしつける、人のいうことを無条件に素直に聞くとか、そういった人間をつくっていくという体質をもっているとおもいます。 いちおうふたつの問題、劇教材の問題と、朗読、話し方という問題があるとおもいます。 司会 今度の指導要領にみられる演劇教育についてはどう考えられますか。 演教連 こんどの指導要領には小学校については劇という字はぜんぜんなくなっています。中学校についてはなくなっていないのですが、民間教育団体が戦後いってきた劇教材のとりくみが非常によわくしかはいっていないとおもいます。 司会 もういちどいいたりなかったところをおねがいし、質問がありましたらお互いにおねがいします。児言研の場合は「エセ科学への対決である」ということを強調されたわけですけれども、それは具体的にいうと、どういうことになるのか。たとえば中心とした技能主義、技術主義についてだが、今までの技術主義だというと内容の面を軽くみた技術主義ということで話されてきたけれども実は、画一的な思想を培っていく技術主義なんだ、というわけですね。そのへんをもう少しくわしく。 児言研 説明文を読ませるという指導書の指示事項などをみますと、たとえば五年生では要旨をよみとるということがある。その解説などを読んでみると、要旨というのは作者がいわんとするだいじなところというふうに規定されている。用語とその規定が問題なんですね。うっかりするとわれわれは非常に不明確なままで自分勝手な解釈をくっつけて、 司会 さきほど木村さん(日生連)の方から出ましたけれど、聞く、話す、読む、書くという領域説にこんどの指導要領も立っているというふうにどの団体も認めていらっしゃいますね。木村さんの指摘によれば、それは言語の本質ではなくて、現象としてある言語活動みたいなものだ。聞く、話す、読む、書くという領域のなかで経験させるという、そういった考え方をまだ指導要領のなかでだしている。児言研の方からはそれは内容ぬきの技能、技術主義ではなくてやはりはっきりと内容をあらかじめもって、その技術になんとかして支配層が思想、内容をはめ込んでいく、内容を注入していくことになるのではないか、というおさえ方をした。そのおさえ方は各団体でも見解としては一致していますね。 日作 われわれが指導要領を技術主義だというのは、生活現実との対応、現にある事実との対応をぬきにして言葉だけを操作させる考えかた、子どもにとって重要な現実ときりはなして、スキルだけを重視する考えかたが支配的だからなのです。そしてそれは、何のために行なわれるかというと、さっきいった国家イデオロギーを注入しやすくするためなので、その点で教化主義だというのです。 司会 つまり 文教研 そうだとおもいます。そこのところ文教研では、こうおさえているわけです。ある面アメリカンプラグマチズムによりながら四三年のころあたりからはっきりと経験主義だけでなくて独占資本に奉仕するような、国家主義をつくるような役割をはたすような形で、「生哲学」のようなかたちをもってきた。単なる技術主義ではなくて、ちゃんとむこうのイデオロギーをくみこんだ技術主義だとおもいます。 児言研 現実をみさせないという意味での思想性ですね。やはり現実をみさせないということはできないので、それをもう一度ひっくりかえして、現実を見せるのだと、そのみさせる見方を彼らはつくろうとしている。彼らの立場から彼らの評価をまじえてみるところの見かたをそだてていると考えるべきだと思います。 司会 荒木さん(日文協)ね。指導要領のなかには、わたしたちから見てずいぶんコッケイな言葉がつかわれているとおもうんですが、日文協などで指導要領につかわれている用語が問題になったことはありませんか。たとえば感動を書くということは何かというと、いわゆる「生活文」だというふうに規定したがるわけです。そうするといわゆる説明的文章というのは感動を書くのではない、ということになるらしいのです。つまり<要旨>という言葉をつかうわけですね。説明文は知識で、生活文は感動だというふうにして分解していくわけです。それは読みにもいえるですけれどもね――。 日文協 いま遠藤さん(司会)がいわれたことつまり指導要領の言葉のつかい方が非常におかしいということ。これは場面に適応したつかい方、文学を読むときの見方、芸術を見るときの見方という「何々方」主義みたいな型ができている。実際生きている人間がそうばらばらに分離されてはたまらない。 非常に現象的なかたちでいえば、やはり生きている子どもたちは現実の日本のなかで生活している。そういう子どもたちを対象にしながら国語教育をしていくわけですね。 そういう意味で最近日文協は、教師論の追求をさかんにやっているのですけれどもね――。教師の主体性の回復、ということです。 自分では民主的で進歩的な教育をしているとおもっているのだけれども、実際はどうか。相対[ママ]としては外側がつくり出している状況におし流されているのではないか、ということに、常にわたしたちは敏感でなければならない。そうでなければ、状況と自分の関係がわからなくなる。 もうひとつは教材の問題です。教科書教材というのはかなり限定されてできています。その限定つきの教材を実際に大多数の現場の教師はどう見ているのか、どう扱っているのか、そして自主教材をどのようにして選び、どう与えているのか、という問題です。教材の見かた、深めかた、与えかたにわたしたちは、もっともっと敏感でなければならない、ということです。 それからさっきも日常性という問題がでたのですけれど、いまの権力の側では、なんとかして体制に従順な人間像をつくっていこうとしている。それに対してわたしたちは、実際に生きている子どもたちがもっている可能性をどうやってひき出し、どうやって豊かに育てていくかということを真剣に考えなければならないと思います。 もうひとつは古典の問題です。権力の考えている民族の「文化遺産」というものに対してわたしたちが、どう実践的に対決していくか、という問題があります。 文教研 いま荒木さんがいわれた画一的な人間像をつくろうと体制側はもくろんでいるということですね、小学校六年生の「用語解説」というページの「文学作品の指導」という項をみると「読書指導の一分野として位置づけられる。文学作品に表現している、思想、感情、すなわち主題を表現に即して読みとる読解の過程を指す、別に、その文学作品の思想、感情も扱い、人間形成をはかる立場もあるが、それに終始することは国語科の本質ではない」、こういうことを平気で書いている。「人間形成をはかる立場もあるが、それは国語科の本質ではない」こういうとらえ方であるということです。それについてわれわれは意見がある。文学作品を与えるということは、トータルな形で子供たちの人間形成をはかることにつながるはずなのに、指導書によりかかっていると、ただ単なる読解の技術の習得におわってしまう。こんなことでは主体性の確立などははかれない――わたしたちはこういうふうにかんがえるのです。 司会 これまでの話で、ほぼ指導要領の性格は明らかにされたわけですが、それでは、そのような新指導要領にたいして、どう実践的に対決するか、を各団体に語っていただきましょう。 児言研 エセ科学との対決ということをさっきいいましたが、それを次のような方向でおこなおうとしています。理論と実践を科学的に深めよう――これは、わたしたちのあいことばであるわけです。 自分が直面している問題を科学的に分析し、正しい理論に依拠しながら、学びながらやっていこうという広いよびかけです。 つぎに、子供の発達について正確な知識をもとうということです。知的な発達もふくめてです。そういうベースに問題をのせなければ子供の未来像というものをはっきりとうちだすことができない。発達観をきちんとしようということにもなると思います。子供の言葉の発達と認識の発達とのかかわりのうえに、基礎勉強しよう。 そういう大きな目標をおいて、さしあたり、今、進めている最も中心的なのは教科書批判ということです。教科書批判というのは悪いところを中心にいままでえぐり出してきたわけですけど、それだけでは批判の前段階ではないか。批判の後段階ということを考える。いくらわれわれが悪い面をえぐり出し、あるいは教科書をぜんぜんつかわないという運動をやっても、また新しい教材を自主的に編成するということも現実的に困難な条件があるわけです。そこで教科書批判の第二段階として、教科書のここがいけなくて、ここはこう書きかえなくてはいけない。こう書きかえれば、書きかえないよりもこのようによくなるんだという、教材の手入れを考えるわけです。部分的にかえることによって、非常に悪かったりすることがはっきりすると、運動理論的にいってもかなりプラスになる。そういうものに着目しながら、今、いくつかの実例をだしつつあるわけです。このような仕事をすすめる一方、新しい教材を発掘していくわけです。もう一つは、言語の問題になりますが、たとえば文法ですが、どうしても自分たちのテキストをつくらなければいけない。どうしても、とり立ての文法教育をしなければ、子どもたちに言語の力をきちんとつけることができない。このような考えに立って、文法のテキストづくりを少しずつ進めているわけです。 指導過程の問題ですが、いわゆる段階読みというのではない。総合的に読んでいくのだという原則に私たちは立っているわけですね。その原則は、原則の強調であった。発達段階であるとか作品のタイプにおいてちがってくる、指導過程というのをやはり明確にしてきていなかった。これからできていくわけですけれども、、そういう面で原則をはっきりさせつつ、なおかつ発達段階であるとか作品の質によって指導過程がかわってくるんだということも明確にしていきたいとおもいます。 司会 日生連のほうは、どうですか。 日生連 子どもたちが生活の中で身につけた実感とか事実、矛盾、それにもとづいている知識などをくだらぬもの、教育の対象ではないんだ、として、子どもからの遊離の教材が多いんですね。それはさっき言われた、行政当局が、きわめて意図的計画的に、生活からの遊離、権利の否定、大国主義シンボルを子どもの中にもちこもうとしているわけですが、だからこそ私たちは、名作主義ではなく、子供の生活主体にはたらきかける、問題意識をほりおこす、ふかめる、そういう教材をあたえたい、と思っているわけです。 教科書の教材だけでなく、大国主義のシンボルとか、経済政策の賛美とか、権利の否定とかは、マスコミをとおして、あるいは、マスコミに骨ぬきにされたおとなをとおして、子供の思考や思考の方向を規格化しようとしています。それから、子どもをうばい、まもらなければならない。子どもの側からいえば、主体を回復して、現代社会をみぬく目をもつということです。まず、これをめざさなければならないと考えているわけです。 そこで、私たちのしごとは、教養主義的な名作ではなく、子どもに生きてはたらく作品、教材の選択、発掘を第一にしています。 第二に指導過程ですが、小松(児言研)さんもいわれたように、読みとりにひとつのきまったパターンしかないとは考えない。指導のしかたは、作品と、子どもの状況――学校の自治活動という学校体制だけでもちがってくると考えるわけです。だから地域の状況をふまえ、こうした生活や意識の子どもに、この作品を与えたら、こうだったという例をいっぱいだそうじゃないか、そこから典型的なものをつくっていこうとしているわけです。 なお、教科書などで、子どもの現実認識から、事実に反する内容、反発を感じた内容批判は、小松さんのいわれるとおり大事だとおもいます。 文教連 さきほど現実をみさせないという指導内容が、でてきましたが、私たちのところでは指導過程とかそういうことにたいしては、いろんな研究団体からでているなかから学び、なんとか独自のものをつくりたいという努力をしてきているんです。それと同時にいちばん大事なのは自主的な教材をつくるということではないか、それは、さいわいにも民族的な児童文学運動をやっている日本児童文学協会と友好関係を結んでやっていますから、そこの作家、研究者たちと協力して、自分たちのおかれている現実のなかで、そういう現実のなかの子供たちを、現実を生きぬいていくためにどういうような作品をつくったらよいかというような研究をしているわけですが、それと教育の課題というのが結びついていく。特に文学教育の課題と結びついていく。現実を正しくみつめ、そしてそこからくもらない目で真実をみつめて、労働をするという子供たちの姿をとらえた作品というものがたくさんできている、そういうものをほりだして現代児童文学のすぐれたものをとり入れていこうということをしています。 司会 荒木さんに伺いたいんですが、「状況認識の文学教育」という考えかたがありますね。「古典」として定着された作品ではない、現代を大胆にとらえた作品を子どもに与えることによって状況認識をさせる。そのことによって生き方を学ばしていく、それが大事なんだとして現代の作品を教材に設定していくという例が、その生論[ママ]のなかで出されているわけですね。 日文協 文学教育というと作品の読み方みたいなものが大事にされがちですね。作品の読み方が大事なのではなくて、つまり作品のないところでも日本の現実を認識する。そういう目を育てるのが文学教育である。文学教育のめあてはそこにある。現代の社会状況はひどくとらえにくくなっている。ともすれば、われわれはその状況のなかに埋没してしまって、主体をいつのまにか喪失して行きがちである。子どもも例外ではない。このような状態のなかではなかなか古典的な教材が生き生きしたかたちではいっていかないし、入れたとしても常識的な、表面的な読み方に堕してしまうおそれがある。また、古典は非常にすぐれているが現実のなかではなかなか大衆化しにくい、そういう問題があるわけですね。教師にかなりの力量が必要ですね。そこで、現代の文学作品をもとに日本の現実を認識させようというわけですね。 文教研 今の「状況認識の文学教育」の話で荒木さんがいわれたように文学書の読み方しか教えない文学教育には反対ですね。ここを読めた人は、次はこちらのをというあの技術主義的読み方は、例えていえば、自動車の教習所みたいなものですね。教習所を走って大丈夫だから、はいお次ぎはちょっと街頭へという技術主義ですね。ほんとうに文学書を主体的にうけとめて文学の上で現実をとらえるという機能、そういう意味で文学作品を読んできたえられた子どもが現実をきちんととらえて、創造的に現実を生きていく、こういうふうにしていく。それが現在の現実のなかで文学から現実をとらえる目をそだてるということですね。ただ現在を素材にした作品でなければ駄目だという、そういうとらえ方には反対です。必ずしも現代文学に限る必要はない。そういう意味では現在を適確にとらえる目を養う古典であってもいいわけですね。 遠藤 いま自動車の例がでましたけれど、作文をつづるということにもそれが出ていますね。今度の指導要領を作るのにたいへんな力をそそいだといわれる輿水実氏が、作文というのは自動車の練習と同じだといっています。そして彼は、指導要領・国語科の解説で話題、題材の選定の項目に愛国思想というのをもちこんだことを、国家主義的に強化したのだといっているのですが、これがおそらく本音なのでしょう。 日作 その技術主義の問題と現実をとらえるという問題は、いま鈴木さん(文教研)からから出たので日作のほうの考えかたにつなげていいますと、自動車教習所の訓練にたえ、この文の練習をして、その次に、このようなちょっと複雑な文を練習するといったそんなことで終始するようなことを、日作では作文教育のしんの方法ではない、と考えているのです。子どもたちが文章を書くというのは、子どもたちが現実とどうむかいあい、それに対してどう思想、感情を深め高めていくか、ということをぬきにしてはありえないのです。その次に、このようなちょっと複雑な文を練習するといったそんなことで終始するようなことを、日作では作文教育のしんの方法ではない、と考えているのです。子どもたちが文章を書くというのは、子どもたちが現実とどうむかいあい、それに対してどうしそう、感情を深め高めていくか、ということをぬきにしてはありえないのです。 現実と自分との関係のなかから、何を価値ある題材として選び、それを 司会 表現活動の問題に話題がきましたので演劇のほうから意見を出してもらいたいのですが、さっきも、ちょっとのべられたように、劇について必要なものを文部省はだんだん落していって字ずらすらに表われないような状況にもっていってしまった。それについて演教連は学校教育において演劇教育はこの点でだいじなんだということをのべてくださいませんか。 演教連 学校教育のなかでということでなく少し限定して、国語教育のなかでの劇教材を考えますと、先ほど教科書の問題がだされましたが、ほとんどの国語の教師が劇というものをあんまり必要を感じていないというのが逆にいうと現実ではないかと思います。それは向こう側が、話す、聞くの領域のなかに劇の教材というものを場面的に考えて、ただひとつの詩とか小説とかいうもののジャンルとしてそれをおいてきただけといったような側面があったし、あつかう方でも実際にはちょっと迷惑だなというような調子でやらせてきたというようなことがあったとおもうのです。 小学校、中学校の教師が実際に演劇というものに関心をもっていればすぐにわかることなんですが、また、やっていればどなたでもわかることだと思うんですが、劇を子供に与えるとたいへんよろこぶわけですね。そまつな教材でも、かわり番こに役をわけて教室で読むだけでもおもしろがる。あれはいったいどういうわけだろうかというと、私どもが考えたところでは、ひとつは対話で書かれているということはもち論ですが、他のものになりかわる、しかもひとつひとつにどうしても行動の裏づけが必要だ、逆にいうと行動にささえられた刺激として子どもにささってくるそれが魅力なんです。 劇というものはかならず対立をふくんでいる。葛藤や抵抗をふくまないものは、劇といえないわけです。文部省なんかがそういうものをはぶいたという底には、やはり、子供たちを劇的な葛藤のなかにおいて対立のなかで人間や社会をわからせていくことをこのましくないと考えているからではないでしょうか。 わたしたちは教科外活動という分野でだいぶ精力をつかっているもんですからたいへん取りくむのがおそかったのですけれども、いちおう国語の劇教材のとらえ方としては、いまいったことと、やはりそれが最終的には身体的な表現がともなう言語の切実さ、それを大切におさえていくことに注目したいですね。 演劇の問題も結局、いまいろんな団体からいわれた、認識の深化、主体的な生き方の基礎をつくってやるということにつながっていくわけです。さっきも、ちょっとふれておきまいたけれども、朗読という問題ですが、正しい朗読ということは重視しなくてはなりません。だが、今度の教育課程のなかに朗読というのがとり上げられているわけですが、それはただ形式だけで、正しい言葉で話すとか、人のいうことを聞きわけるとかそういうことです。主体的になにを表現するかという朗読の意義をはっきりさせなければなりません。演教連としてはこの問題をもっと鋭く追求していかなくてはならないと考えます。 司会 教育としての演劇のだいじさを強調しつつ、芸術への接近をエネルギッシュにこころみているわけですが、文学の面から、文教連のほうでおっしゃりたいことがありませんか。 文教連 さきほどいったことで誤解されるといけないので言いなおしますが、現代的な作品でもって現在をとらえる、現代を生きているたくましい子どもたちの姿をとらえた作品を積極的に与えて、現実を正しくみつめる人間をそだてていきたい、といいました。そういうことはやはりすぐれた作品によってきちっと授業にのってなされなければならないということがあるんです。それと同時にもう少し幅広く、ゆるやかなところで、あらゆる機会をとらえて子供たちに読書体験をさせる。文学の作品の質を考えることはもちろんですが、現代的なすぐれた作品をうんと入れながら、体験の機会を多く蓄積していくということも現代の状況のなかではたいせつだということを言いたかったわけです、それはつまり現代の子供たちが、文学作品の体験をしていくということは、テレビ、マスコミとはちがった質の体験をさせていくことなので、その体験をすることのよろこびというものを味わわせるということは大変よいことなので、それを味わえば子供がもっている欲求にあわせてどんどんやっていけば、大きな教育の武器になっていくと考えるわけです。 司会 文部省はこんど、読解指導と並んで読書指導の重視ということを出してきました。これは、何を意味しているのか。おそらく、これまで話し合われてきた官製イデオロギーの注入ということと無関係ではないでしょう。そう考えてくると、今後文教連の担う役割というのはとくに重要になってくるのではないかとおもうのです、つまり教室をこえて子どもたちに読書体験を与えるということを体制の側が重視してきたということはいったいなんなのかということと、そのような状況のもとで読書指導の研究をふくみつつ、文学教育の課題を拠[ママ]っている文教連のいう読書指導というのはどうちがうのかという問題。これはこの夏の研究集会で話題になることはなかったですか。 文教連 文部省から読書ということが出たものですから読書指導の分科会は一番多かったのです。文学教育の成果について私たちが研究したものだけでなく、皆さんがやってこられた研究の成果を全部いただきまして、それと読書指導と結びつけて考えていくわけですね。そうしますと文部省がだしてきたものより高いレベルでわたしたちの構造がはっきりしてくるのです。これはたいへんすばらしいことですのでそこを突破口として今後の研究をすすめていきたいと思っているのです。たとえば、豊富な実践によって選ばれた良い本のリストをこちらの側できちんとまとめていくということなども、今後はどんどん行なわれていくだろうと考えるのです。 司会 親どうしで本を読み合うとういう傾向がたいへん強くなってきていると思うのですが、こんな動きを重視しなければならないと思うのです。いわゆる良書選定をお上選定方式みたいなのにゆずりわたしてしまったり安易な公民館方式にゆずりわたしてしまうか、それとも教師たちが民間教育の成果を自分でうけとりつつ、自分たちでそのなかにはいっていくか、たいへんな分かれ目になると思うのですが。 児言研 良書を紹介しますね、たとえばこういう話があるのです。 「ジャガイモの花と実」という本があるんです。バーバンクという人が十年もかかってジャガイモの品種改良に成功してその成果を百五十ドルで売った、という話です。この本を読んで、農村の子供は「うまくやりやがった、彼がいなかったらオレがやったのに」という。一方、都会の子供は、「えらいな、とてもオレはやれない」という。「良い本」を読んでも、このような読みとり方が行われるのでは効果がうすい、「読みの方法」をも共に打ち出していくべきだとおもいますね。 文教研 この夏の研究会にはだいぶお母さん方がきたわけです。そこで話ですけれども、「羅生門」とか「わが輩は猫である」などを読まない人はいない。しかしその読みがくるってしまっていることがあるんですね。また新しい名作にしてもうっかりしているとやはり読みがくるってしまっているのです。 文学を文学として読むということはどういうことか、ということをはっきりさせておかなければならないと、つくづく感じました。いい教材を発掘すること、そして教材に応じた指導過程をしっかりと確立させということの大切さを強く感じました。そんなふうに考えます。 司会 では時間のつごうもありますので、この問題はこのくらいにして、各団体にこれからの課題についてのべてもらいたいと思います。 児言研 ベースとしての基礎科学の研究ということを、それは先ほど申しました通り、発達の研究と、心理学・児童観の問題をつきつめていく。それから認識論の問題の追求、そういうものを統一する仕事をとおして技能主義批判をしていこうということ。具体的なテーマとして授業研究、教科書批判と新教材の問題、指導過程の問題等の追求を設定し、指導過程ではとくに原則点をきちんとするということ、このようなことをしっかりやっていきたいと思っております。 日生連 先ほど申したことでつきるわけですが、かんたんにくりかえしますと、現実生活からの遊離に抗して、現実をみぬく目を育てる国語教育をやるということ。そこに教材の自主選択、教科書教材の事実にもとづく批判、思考を育てる、主体を育てる指導過程を追求するということですね。それと、子供をとりまく地域の変ぼう、状況の変化もありますので、広くそれもとらえなおす必要があると思っています。 文教連 いまもり上っている子どものための民間読書運動と、そのなかでの内容の選択、評価ということと、それはいま文教研の方がいわれたように教材をたくさんえらび、体系化して出していき、それを、どういうふうに子どもたちに読ませていったらよいのかという、方法をセットして出していくとおっしゃったその問題がだいじだと考えます。その方法のだし方ということですが、一方では教室における授業、読書指導の方法をはっきりさせること、それと一緒に幅ひろく母親の側の運動を組織し、高めていくということ――この二つを統一していくことが大切だと思います。後の問題を具体的にいうと、教師の側からはたらきかけて母親の活動をだしていく、茶の間であるいは地区での方法、地域文庫の追求をやりすぐれた作品を紹介していくなどがあります。 文教研 わたしたちは現在の日本民族のおかれている現実を直視するところから出発します。それは反動体制の状況でわれわれ自身バラバラにたち切られた状態を、どう回復するかという問題に立ち向っていきたい。わたしたち働く者の連帯についてねばりづよく追求していき、そうすることによって民族的課題にこたえていきたいと思っているのです。人間の連帯ということは、生産、労働の上にたってこそ可能なのであって教材の選定も生産と労働ということを軸におきたいと思うのです。 このような方向で国語教育のありかたを追求していきたい――これが基本的課題になると思います。 日作 現実をリアルに見せ、そのなかから価値ある題材を発見させ、表現し、表現した作品を鑑賞させることをとおして、真理・真実へ接近させていく、思想・感情の形成をはかりながらそれをやっていく、ということが生活綴方の基本的ねらいなのですから、これからも、変化し変騰[ママ]する現実との対決のなかから子どもたちが何を学びとっていくか、何を学びとらせていくか、ということをだいじにします。それから、現代の子どものとらえかたを教師のがわでしっかり学んでいくことの大切さを確認しておりますので、そのことにも、よりいっそうの力をそそいでいきたいと思います。そして、今日の状況のなかで、しんに子どもを成長・発達させるための、生活綴方の内容と方法を、いままでの成果をふまえて追求していこうと思っています。 演教連 演劇というものは身体表現、言語表現の統一したかたちでの創造活動ですから創造へ向かう子どもたちの可能性を豊かにひき出しつつ、その内容と方法を追求していきたいとおもいます。なお演劇というのは集団による活動ですから、当然子どもだち集団の問題についても深く追求していかなければならないと思っています。もうひとつは、国語科の教育との協働によって、質の高い演劇教材を発掘・創造していかなければならないと思います。 司会 わたしたちは、目標のうえで基本的に一致していながら、主として方法の問題をめぐって、さまざまな意見の相違・対立点をもっている。民間教育運動というのはそれぞれの団体の独自性、多様性を尊重しあうというのが原則ですが、その間は統一をめざしてたたかうために基本的におたがいがこんな点を確認しておこうではないか、という原則があるのではないか、あっていいのではないかと思います。たたかいの理論として、あるいは倫理として、ここで確認しておきたい考え方を、率直に出し合ってみようではありませんか。 日文協 やはり多様な考え方を保障するということはたいせつなことです。それをふまえて相互批判がおこなわれればいいと思います。 民間教育団体のなかでの論争はおおいにあった方がよいであろうと思います。論争することによって問題は発展していくわけですから。それがない場合、統一ということはいつのまにか 児言研 荒木さん(日文協)の御意見に全面的に賛成です。論争はあってしかるべきです。しかしその場合、指導過程としてうち出した場合でも、それに相手からみれば不充分であろうけれどもベースになっている考え方というのはあるわけですね、言語観、認識論においてもあるわけです。そういうことをいおうとすると、「言語観をいうのは怠けものの仕事だ」というようなことをいって論争を中途はんぱにうち切る。こういうことばのゲバは許すわけにはいきません。 文教研 科学的・論理的におこなわなければなりません。まちがってもレッテルのはりあいはしたくないとおもいます。 演教連 もう一つは、意見の交流があることはおおいによいと思いますが、たとえば教研集会の場合なんかでも自分の団体を主張したがるのはよくないと思いますね。 日作 論争は良いが、なわばりあらそいになったのではダメです。なわばりあらそいになるのは、セクトがセクトだけで存在しているからだと思うのです。独自性をもちつつもわれわれは、共同の運動をやっているのだというモラルがほしいと思います。だから民教連としてきょうのように交流をはかるためのいろんな機会をもっていけばよいと思います。 児言研 「モラルの問題」とか「なわばりあらそい」とかいうとらえ方には反対です。そうではなくて、何について、だれが、どういう意見をだした場合に、それをだれが、どういうふうに反論したかというデ-ターを出して論争したらよいとおもいます。 司会 短い時間でしたので、日ごろ考えていらっしゃることの何分の一も出せなかったと思いますが、いろいろな点で基本的なことがらが、おおよそは出していただけたのではないかと思います。ありがとうございました。 (教育科学研究会・国語部会は、座談会の参加を検討した結果、都合により辞退するとの申出がありました。――編集部) ∥文教研のプロフィール∥文教研の歴史∥年表・文教研史∥文教研(理論・運動)史関連記事一覧∥ |