機関誌による文教研史 B 1977年6月発行「文学と教育」第100号(記念特集号)「巻頭言」
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初心忘るべからず ――「文学と教育」百号に寄せて 委員長 福田 隆義 |
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百号記念誌の巻頭に「文学と教育」創刊号(一九五八年一〇月刊)の巻頭言――私たちのしごと――を再録しておく。私たちの機関誌は「文学教育」ではない。「文学と教育」である。「文学教育」とせずに「文学と教育」と命名したのには、それ相当の理由があった。――私たちのしごと――を読み返すことで、その理由の一端がわかっていただけると思うからである。
まず、文学教育という側面に目を向けてみよう。熊谷孝氏の「国語教育としての文学教育」(「文学と教育」5 1959年)という提唱。それを裏づける、国語科の教科構造。さらには『言語観・文学観の変革と国語教育』(明治図書刊 1967年)や『文体づくりの国語教育』(三省堂刊 1970年)などの労作に学びながら、文教研著『文学の教授過程』(明治図書刊 1965年)『中学校の文学教材研究と授業過程』(明治図書刊 1966年)、さらに『文学教育の構造化』(三省堂刊 1970年)などを公にしてきた。これらはいうなら《国語教育のなかに文学教育を明確に位置づける》という課題に対する、私たちの解答である。 他方、学校教育のワクを越えたところで“私の文学”の追求を軸に、芸術論や文芸認識論などの学習をすすめてきた。ここでも、私たちに指針を与えてくれたのは、熊谷孝氏の『芸術とことば』(牧書店刊 1963年)であり、『日本人の自画像』(三省堂刊 1971年)や『芸術の論理』(同 1973年)であった。こうした現場主義を克服したところでの研究が、私たちの理論的飛躍を保障した。 むろん両者は無関係ではない。バラバラに追求してきたのではない。理論水準にみあった実践を、そして、実践をくみあげて理論化を――、これが私たちの合言葉であった。研究と実践とが相互に上昇循環の軸を作りだしたとき《明日の民族文学創造の基盤》も確かなものになる。 私たちは、そうした研究姿勢を貫いてきた。そして、その時点での研究成果は、百号におよぶ機関誌に反映させてきたし、前記の著書に集約し世に問うた。一方、二五回の全国集会を組織した。また、日教組全国教研をはじめ、県、市段階の教研にも積極的に参加した。そうしたなかで、私たちの主張は徐々にではあるが確実に支持者を獲得してきたことは事実である。けれども、今なお、文学・文学教育を過不足なく受けとめているとは考えられない民間教育研究団体もある。また、文学教育を「おしゆがめようとする」側の動向は、さらに巧妙さを加えてきた。 初心忘るべからず。創刊号の巻頭言を再録した理由である。 |
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