創立以来、41年を迎えたサークルです。その源流は、1945年敗戦後の混乱期に求められましょう。
サークル生みの親であり、理論上のリーダーでもあった熊谷 孝(92年没)は、戦中、宮城県に疎開。戦後も教職に献身し、さらに生徒たちの兄姉弟妹たちとも、学校の内外において、創刊されたばかりの雑誌「世界」や「中央公論」、文学作品などを読み合い、若い主権者としての現実認識を確かなものにしようと、対話を重ねました。こうした活動は、『文学入門』(49年学友社刊)、『文学序章』(51年磯部書房刊)に反映されています。
東京の仲間たちの懇望もだしがたく、熊谷は、50年帰京、『十代の読書』(54年河出新書)、『文学教育』(56年国土社)の刊行など、文学教育、児童文学に関する仕事に取り組んでいます(「文学と教育」160号参照)。
50年代後半、全国青年教師連絡協議会主催の集会が年一回、開かれていました。その文学部会の講師であった熊谷は、講師団を代表しての閉会の挨拶で、次のような発言を行いました。「七夕さまのように年一回ではなく、各地でサークルをつくり、継続して取り組みましょう」云々。この呼びかけに応じたのが、若い福田隆義・荒川有史たちでした。
58年10月、「サークル・文学と教育の会」誕生。機関誌「文学と教育」創刊(2001年11月現在、193号刊行)。指導要領の拘束性が強まるなど、情勢は厳しくなる中、文学教育に責任を持つためにも、教師自身の文学観、言語観、発達観(子ども観)を根底から問い直す作業を続けました。仲間との共同作業の継続、相互変革をはかりながら、原理原則を主体化しよう、というよびかけでもあったわけです。その目的を徹底するため、1960年2月26日、文学教育研究者集団と改名、現在に至っています。
ご多分にもれず、会員も高年齢化の傾向にあります。が、かつての青年教師の情熱は脈々と生きつづけております。公開研究集会に参加した大学生・高校生が、真剣に議論している大人の姿に心うたれた、と語ってくれました。
毎年、全国集会プログラムの表紙に掲げている私たちのサークルからのメッセージは―――
文学史を教師の手に
“文学教師”―――それは、自身に文学を必要とし、また、文学の人間回復の機能に賭けて、若い世代の“魂の技師”たろうとする人々のことである。そういう人々の中には当然、学校教師もいるだろう。当然また、人の親や、兄や姉もいるだろう。限界状況の一歩手前まで追い込まれた、日本の社会と教育の現状は、今、まさにそうした人々の文学教育への積極的な参加を求めている。
|