≪ リンクされているHP・ブログから ≫ 
 
 
  ┏━━━ Za-an,Zabran,se-er,……Zabr'n,za-an,se-er━━━┓
 ┃                            ┃
 ┃  ざぶらん通信   2010年08月15日(木) NO.083    ┃
 ┃                            ┃
 ┃  発 信   流 木 RyuBqu               ┃
 ┃                            ┃
 ┃     光┃や┃風┃に┃触┃れ┃な┃が┃ら┃     ┃
 ┗━━━━━┛━┛━┛━┛━┛━┛━┛━┛━┛━━━━━┛
 
 
 
    くげぬま断章(5)
          再び、尼寺にて       R y u Bq u


   涼しければ葬るに好しと尼寺を言いてし人は風にねむれる
                     「挽歌 第二」(阿部 昭)

      ◆ 本真寺
 挽歌と題して上記のように詠まれた昭の父も、また彼の不幸な兄も、この寺
に葬られている。自身も1989年5月、55歳の若さで、ここに眠った。

 寺は、鵠沼海岸の本真寺である。しかし土地の者はみな尼寺で通している。
ここに祖父母や両親の墓を持つ私も、そう呼んできた。
 立秋とは名ばかりで、まだ暑い。きょうは施餓鬼の供養で卒塔婆を新しくす
る。それで花と線香を持って、家内とふたり、寺の門をくぐった。

 我が家の墓を清めたあと、私はいつも他に二つの墓に手を合わせる。
 ひとつは子供のころ仲良しだったシゲちゃんの墓であり、いまひとつはこの
阿部昭の墓である。
 シゲちゃんは昭和21年の夏、9歳のときに海で死んだ。一緒に溺れて私だ
けが助けられた。ずっと負い目がある。
 この悲しい事件のことを、昭は『星』という短編小説の最後にふれている。
深い縁を感じながら、また一読者として、昭の墓にも手をあわせる。

 近頃は、墓が増えて、そのぶん寺域の樹木が少なくなったようだ。
 しかし桜の大樹が枝を張る藤棚下のベンチに腰をおろせば、相変わらず、こ
こは風が吹き抜ける。用意されている茶を飲んで、しばらく涼んだ。

      ◆ 父たちの戦後
 読経が続く本堂を前にして風に吹かれていると、昭の文章が思い返された。

  ・・・その晩、おやじは、おふくろに笑い話めかしてこういったりした。
   「おれの葬式は、尼寺でやってくれ。あそこは、木がたくさんあって、
  夏は涼しくていい。」
   尼寺は、僕の家から歩いて五分のところにあった。木立にかこまれて、
  爽やかな海の風が吹きかよう本堂があった。
   (中略)その夜の冗談通り、おやじは夏の最も暑い時分に死に、尼寺
  での葬式はかくべつの涼しさで老いた旧友たちを喜ばせた。
                         (『大いなる日』)

 小説『大いなる日』は、語り手の〈僕〉が、敗残の恥辱に耐えて戦後を生き
てきた「帝国海軍のはしくれだったおやじ」の最期を視つめた作品である。
 この父と「友情を結ぼうとして」結べぬままに終わった〈僕〉は、しかしそ
の死を契機に、書き残された遺品などから父への理解を深める。

 たとえば、父の手帖やノートの余白に、117-20=97 というような
簡単な計算式を幾つもみつけ、〈僕〉は父の戦後がどういうものであったかに
思い至りもする──「死の日までつづく長い休暇」を生きる「生き残った軍人
の父」の、鬱屈とかアンニュイ(屈託)といったものに、である。

 117から引き算された答えの数字は、父が誰かの葬儀に出るたびに大きく
なっていた。この117は、実は50数年前に海軍兵学校を卒業した同期生の
数だったのだ。そこから生存者の数を引き、死者の数を確かめるという奇妙な
引き算を〈おやじ〉はしていたのだ。
 普通なら総数-死者=生存者とし、互いの生存を確認するはずのものだろう。
ところが〈おやじ〉は、戦後ずっと死者を数え続けていたのだ。
 寡黙な、その数字に〈僕〉は〈おやじ〉の戦後を見たのだ。

 私の父は軍人ではなかったが、また中学時代から趣味でヴィオリンを弾いて
きたような男だったから、軍隊になじめたとは思えなかったが、それでも戦後
ずっと「○○戦友会」の名簿を管理していて、父の葬儀にはその戦友会の生花
が届き、戦友会の者だという老人3人から、丁重な挨拶があった。
 阿部昭が描いた父親の戦後とは、ずいぶん違う現実を生きた私の父だったが、
それでも、戦地から生還した者に見られる、ある寡黙さが、どこか似通ってい
るように感じられた。
 戦友の葬儀に出るたびに、この世代の男たちは、多くを語らず、自分たちの
「戦後処理」をしていったのかもしれない・・・そんなことを思った。

 一息入れたので、墓地へ出た。なんという偶然か、黒揚羽蝶が舞った。
 「きょうここで、黒アゲハなんて、誰の魂かしら・・・」 妻が言った。
 家の墓を清めてから、昭の墓石へそっと手を合わせた。
 その墓地は白く乾いていた。

      ◆ 海の子供たち
 続いて、シゲちゃんの墓の前に立つ。

 昭の『子供の墓』という作品には、ここを遊び場にする彼の3歳の息子サブ
ロウが「サブちゃんのお墓は、どれ?」などと訊ねながら「榛葉(はしば)家
や浅場家や山口家に柄杓二、三杯ずつ」手桶の水をかけて歩く姿が、ユーモラ
スに描写されている。
 その榛葉の墓のひとつに、シゲちゃんは葬られているのだ。

 今日は私も水をかけた。「今日は暑いからね」という気持ちからだった。

 戦争が終わった翌年の夏休みは、金色に輝いていた。
 P51やグラマンの機銃掃射を心配しないで、存分に海で泳げたからだ。
 おまけに、この夏休みを境に、私たち〈海岸の子〉は藤沢第3国民学校から
分かれて、近くにできる鵠洋国民学校へかわることになっていたので宿題も出
ていなかった。
 この夏は、真っ黒になって遊べる日々が期待できたのだ。
 食糧不足でまともな食事はできなかったが、胸はたのしく膨らんだ。

 シゲちゃんは私たち学年のリーダー格だった。
 登校する時は、上級生に率いられた分団で、隊列を組みながら行ったが、下
校の時は、同学年のものが4、5人で群れて、道々いたずらなんかもして、遊
び遊び帰ってきたものだった。
 その遊びを、いつもシゲちゃんは思い付いたり、面白くしたりした。

 7月10日、この日は、この海の「海水開き」の日だった。
 昼飯を済ませてから、私たち仲良し4、5人は皆そろって浜へ出かけた。赤
か白の6尺ふんどしを、それぞれ気合を入れて締めた。シゲちゃんは白、私は
赤だったのを覚えている。
 火傷しそうなほどに熱い砂浜をピョンピョン飛び跳ねながら、皆いっせいに
ワーッと海へ飛び込んでいった。むろん先頭はシゲちゃんだった。

 そして、そのままシゲちゃんは、あの夏のキラキラかがやく海に抱きとられ
て逝ってしまったのだ。
 「海は、海で遊ぶ子供たちが可愛くなって、ときどきこうやって連れて行っ
てしまうのよね」と言った人がいた。

      ◆ シゲちゃんの夏
 シゲちゃんが難に遭っているその時、同じ潮の流れに私もおぼれ、もがいて
いたのだった。

 遠浅のこの海には「ドンブカ」と呼ばれる、海底を帯状にえぐる潮の流れが
あって、その危険は知っていたが、うっかりそれにはまったらしい。
 幸い私は、湘南中学(現湘南高校)の生徒だったMさんに助けられ、浜に寝
かされた。モウロウとした意識の中で「もうひとり溺れたーっ!」という声々
を、私は遠くに聞いた。

 阿部昭の『星』という短編に、次のようなエピソードが記されている。

  ・・・深みの多いこの海では、毎年子供が命を落とさぬことはなく、私の
  知っている子も何人か死んだ。いっぷう変わっていたのは、私と同い年で、
  小学三年生の八百屋の息子の場合だった。夏休みに毎日のように泳ぎに通
  っていたのが、ある日、その日にかぎって、母親に「さよなら、さよなら、
  ・・・」と、何べんもあいさつして出て行った。
   ふだんから剽軽な子だったから、当人はお道化たつもりだったに違いな
  く、母親も苦笑しながら送り出したが、夕方、水死体になって帰ってきた。
   その日、その子が死ぬことを知っているものは誰ひとりいなかった。こ
  の海だけがそれを知っていたのだ・・・

 ああ、シゲちゃんのことだ。
 なんべんもさよならを言って泳ぎに出たというのは、その通りで「やだよう、
この子は!」と母親が言った、そのことは繰り返し聞かされた。
 阿部昭は1934年の生まれだというから、実は4歳も年長で同年ではない。
しかし肝心なところは正確につかんでいる。

 シゲちゃんが海から帰ってきたのは、翌日の早朝だった。
 その夜は、深夜まで家族や町内の者が捜しに出たが、無念の思いで家に戻っ
ている。そして、その晩遅く店の戸がドーンと鳴ったそうだ。「シゲオの魂が
あの時、帰ってきたんだねぇ」と、後に母親がくりかえし皆に話した。
 翌朝、警防団や漁師の人たちがコモをかぶせて戸板にのせたシゲちゃんを連
れ帰ってくれた。
 引地川からまっすぐ商店街へ出る道(現公民館通り)を、みな無言で歩いて
きた。町内のおとなも子供も合掌して、これを迎えた。
 あのときに見た、コモの先から出ていたシゲちゃんの白い足の裏は、ずいぶ
ん長い間、私の脳裏から離れなかった。

 神経がたかぶっていたとき、祖母と母の話の中で「父親が戦地にいる間に子
供を死なせてしまったら大変だった」と洩らし合っているのを聞いた。
 それはいっそう私の胸をじくじくさせ、心を重くした。

 あのつらい海水開きの日からちょうど一ヶ月後の8月10日、鵠洋国民学校
の開校式があった。私はシゲちゃんと交換した長方形の小さなメンコを、ズボ
ンのポケットに入れて参加した。

 シゲちゃんの夏が終わった。

      ◆ 吹く風に聴く
 本堂では読経がつづき、供養する家の名が読み上げられている。
 この海辺の町のくげぬまの、この小さな寺に刻まれた、これは鎮魂の譜だ。

 ここの風に眠る人たちの多くは、その人生の物語を雄弁に語りはしない。
 しかし、それぞれの家族や親しい者たちに悼まれ、記憶されつづけていく限
り、その物語は色あせることはないだろう。

 それでもやがて、その記憶を持つ人たちがこの世を去り、物語が風に託され
てしまったら、耳を澄まして、吹く風に鎮魂の声を聴こう。
 そんなことを思いながら、新しい塔婆をたて、私たちは寺を出た。

 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  〔ざぶらん通信〕
 作 者:流木(RyuBqu)
  編集者:風間加勢
  発行日:毎月15日発行
  ご意見、ご感想は掲示板「浜辺の語らい」にお寄せ下さい。
   http://www.geocities.jp/ryubqu88/
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 
   (20160119)  
 
(現在リニューアル進行中)
 http://www.geocities.jp/zabran_news/index.html
 
  http://archive.mag2.com/0000119440/index.html  
     
HOME リンク集-エッセイ・画像リンクされているHP・ブログから