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     ┃  ざぶらん通信   2009年1月15日(木) NO.064     ┃
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     ┃  発 信   流 木 RyuBqu               ┃
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      くげぬま断章 (4)
                       RyuBqu

砂の山天城の頭あしがらに
よそへんほどのしら雪をおく  晶子
  まさぐれば手をすべりつつ砂の云ふ
な泣きそ泣きそ忘れたまへと  寛

私ども二人、伊作氏、真藤氏、凡骨氏と小田原より来り会せられし
白秋氏と二日の冬ごもりをいたし候・・鵠沼にて。与謝野寛、晶子

    ◆
 これは大正9年12月10日付、佐渡の渡辺湖畔宛書簡である。
 今から90年前の鵠沼に残る小さな文学史的足跡・・・詩歌でつながる与謝
野寛(鉄幹)・晶子夫妻の交友風景が垣間見えるささやかな資料。
 こんな断簡でも、かつて晶子の歌集にふれたり、新詩社の機関誌『明星』に
集った詩人たちに関心を持ったこともある私にとっては面白い。

 この冬の日に、たった二日だが、大正デモクラシーの一翼を今それぞれの分
野で担っている者たちが「冬ごもり」と称して集っている。
 「・・・氏と二日の冬ごもりをいたし候」
 親しいものとの、ひとときの温もりを、楽しんでいるふうが見える。

    ◆
 書簡中の「伊作氏」は文化学院の創設者として知られる西村伊作である。
 この「冬ごもり」の翌10年(1921年)には寛・晶子も携わって同学院
が創立されているから、鵠沼の海からの眺めを歌にしながらも、学院のあるべ
き精神とか将来といったものを語り合ったかもしれない。

 伊作の叔父は大逆事件で処刑された和歌山新宮の医師大石誠之助である。天
皇暗殺を企てたという、時の政府によるこのフレーム・アップは、多くの知識
人に衝撃を与えた。
 寛と晶子は『明星』派詩人の一人であったこの大石の救出に努めた。新詩社
同人の石川啄木はこれを契機に「全精神を明日の考察に傾注しなければならぬ」
という決意をした。
 18歳の佐藤春夫は同郷の大石ドクトルさんの処刑を、ただちに「愚者の死」
という詩に書いた。逆説と反語の詩句で、その死に慟哭した。

 十代の終わりに、日露戦争に反対し非戦論を唱えた伊作がこの大逆事件後の
冬の時代を耐え、その中から芽生えてきた大正デモクラシーに呼応して、教育
の分野で自由主義の翼を広げていったのはまさに必然だったのではないか。
 建築家でもあった彼は、客間中心の封建的な住居から、家族のだんらんを大
切に考えた居間中心の住宅を設計し、日本人の暮らしの中に広げていった。

 伊作も、この「冬ごもり」の折りに歌を詠んでいる。
  
    砂の上に家をば建てて住はんと
            する人のため絵図をつくらん

 砂上に家を建てようとする変わり者は誰? その変わり者に、私は図面をひ
こう、という歌だろうか。みんなの屈託のない笑いが聴こえてくる。
 その笑いのむこうに、黒松の林がつづく砂地の鵠沼風景が目に浮かんだ。

    ◆
 小田原からやってきた北原白秋は、このころ離婚のごたごたもあったが、児
童雑誌『赤い鳥』に童謡をさかんに発表していた。

 周知のように『赤い鳥』は、鈴木三重吉が当時の日本の児童文化の低俗さを
嘆き、また国家の要請に沿った教訓説話や忠君愛国の読み物ばかりが与えられ
る教育の現状を憂いて、その人生の後半生をかけ、こども本来の言葉を取り戻
させようと発行した児童文学誌である。
 そこには、こどもを一義的に美化する三重吉の児童観に問題がないわけでは
なかったが、それをこえて大正デモクラシーのすぐれた良心の結集がはかられ、
芸術のかおりたかい児童文学が創作されていった。

 大正がすでに遠かった私にも、白秋の童謡は身近にありつづけた。

    暮れりゃ、砂山、
    汐鳴りばかり。  
      すずめちりぢり、また風荒れる。
      みんなちりぢり、もう誰も見えぬ。

 私にとってこの情景は、いつもくげぬまの海であった。
 そして、人生のそれとしても響いてくるような寂しさが、この童謡のなかに
はあって・・・だから今だって心うたれる。

 この「二日の冬ごもり」では、白秋もずいぶんとくつろいだのだろう。

    骨なきもの みみず なめくじ 飴 にかわ
              豆腐 椎たけ こんにゃくのいも   

 こんな歌をつくっている。
 みんなこれを聞いて、思わずどっと笑ったにちがいない。
 90年後の私も負けずに笑った。

    ◆
 寛も晶子もこの日、友情のぬくもりの中で息を抜いた。
 
 この時期、寛は別の手紙で『明星』復刊の決意を述べている。「今年は経済
的な事情で果たせなかったが、明年には」と言っている。
 翌大正10年11月に、それは第2次『明星』として実現しているから、こ
のことでも、いろいろ金策も含めた奔走があっただろう。
 
 晶子も、教育の民主化や女性解放の問題、政治的な課題などへ目を向けた発
言を積極的に続けていた。
 その中には、時に戦争を鼓舞するような言葉が、昂ぶった感情であらわれて
きて、その感受性のありように、私などは戸惑いを覚えさせられたりもするの
だが、それでもその社会的発言に貫かれているのは、その主観において、今の
現実を、より良い現実へと向けようとする張りつめた精神活動であった。

 こうした二人にとって、この日は、その日常の緊張を忌憚なく語りながらも、
同時に、たわいない笑いを心ひらいて楽しんだりもしたろう。 
 大酒飲みでその奇行が芸術家仲間によく知られている木版彫師の名人、かつ
て『明星』や『白樺』の挿絵やカットを製作してきた伊上凡骨(ぼんこつ)が
加わっていることでもそれが知れる。
 岸田劉生の娘、麗子は彼を「伊上とんかつ」と呼んで面白がったと伝えられ
ているが、その凡骨なる雅号は寛の命名だったという。
 
 そして、この湖畔宛書簡には、この凡骨の絵が描き添えられた。

    ◆      
 2009年、今年は元日から1週間ほど晴天つづいたが、先日久しぶりに雨
が降った。雪になるかと思われるような冷たい雨で、一日中降り続けた。

 翌日は、からりと晴れた。
 朝、西側のカーテンを開けて、思わずオッと思った。
 富士は裾のほうまですっかり雪に覆われ、箱根と丹沢にもところどころ雪が
下りていたのである。
 鵠沼からの眺望も冬景色の装いがはじまったのだ。

 それでも、こんな寒い朝から、もうサーファーの男女が自転車にボードを載
せて、海へむかう道を走っていった。

 冬ごもりのない、今の鵠沼海岸風景である。

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 〔ざぶらん通信〕
 作 者:流木(RyuBqu)
 編集者:風間加勢
 発行日:毎月15日発行
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