かつて「ウォーナー伝説と敦煌」というエッセイで、ウォーナーによって京都や奈良が戦災を免れて貴重な文化財が戦火から護られたとするいわゆるウォーナー伝説について、それが非常に根強いこと、それはどのような事情によるのか、はたしてそれは事実なのか、といったことについて吉田守男氏の研究を紹介しながら自分の体験を交えて書いた。
最近、対馬で盗まれた仏像が韓国で発見されてその日本への返還をめぐる日韓の対立が報道された。これは盗まれた仏像が元は韓国にあったものという、過去にさかのぼる問題が絡んでいるようだ。
こうした国境を越える文化財の過去の移動の正当性をめぐっては、日韓にとどまらず国際的な問題となっており、個々の事例について簡単には結論を出せないことが多い。しかし、100年前の常識は今では非常識であり、貴重な文化財はその生み出された地域で保護するのが今は常識となっている。先の私のエッセイはこうした問題にも触れるものであった。
ところで、私が関心を寄せる會津八一が戦後早い時期に来日したウォーナーと会っていたことを最近知ったので、やはり伝説の信者であった會津八一とウォーナーの発言を紹介しよう。
戦争が終って約1年の1946(昭和21)年7月に、来日したウォーナーを囲んで日本電報通信社が座談会を催した。出席者は會津八一をはじめ岸田日出男・田中豊蔵・長谷川如是閑・武者小路実篤・村田良策(司会)であった。
岸田の「日本の古い建築文化というものが三%位の被害で助かった。これは大変幸福であって、新聞などで見ますとミスター、ウォーナーの功績によるものであると承って深甚の謝意を表したいと思います。」といった発言に対して、ウォーナーは「京都、奈良の事について、それから都市が空爆を免れたということについては合衆国の政策であって私自身の責任ではありませんから、これは申さないで下さい。」と答えている。
會津八 一のこの点についての発言は記されていないが、美術教育では実物に触れることが大切だということでウォーナーと意見の一致をみている(『會津八一伝』 吉池進、1963年、p.649 ~652)。
しかし、1949(昭和24)年の篆刻家銭痩鉄との対談「のこる美術のこす美術」(『中央公論』1949年6月)で、會津八一は1946年の座談会を振返って、「戦争の騒ぎの中でも日本の古美術は護らなければならぬ、奈良をはじめ京都、鎌倉、日光などを焼いちゃいかんといふことを米国の軍部に獻言して、それが容れられたといふことは隠れもない事実で、ほんとに偉大な功労を讃へなければならぬのに、それを話すにもはにかみながら「それは、これを容れた政府が賢明なので、なにも私自身の手柄ではありません」かういった調子です。」(『會津八一全集』 第12、1984年)と述べているので、會津八一がウ ォーナー伝説を信じていたのは明らかである。
ただ、興味深いのはこのときのウォーナーの発言で、「京都、奈良の事について、それから都市が空爆を免れたということについては合衆国の政策であって私自身の責任ではありませんから、これは申さないで下さい」「それは、これを容れた政府が賢明なので、なにも私自身の手柄ではありません」といった発言は、自分の功績に謙虚な発言ともとれるし、先に私が書いたように彼の助言で空襲を免れたのではないことを告白しているようにもとれる。はたしてどうなのだろうか。
なお、早稲田大学における東洋美術史の教育に関して、會津八一は実物に触れることを重視し、そのために日本や中国の美術・考古遺品を蒐集することに力を入れたことはよく知られている。そのコレクションを公開しているのが早稲田大学の會津八一記念博物館である。
また、會津八一は「古美術品の海外流出問題」(1950年8月)で、海外への流出は必ずしも悪いとは言えない。欧米の博物館などで公開されて衆生済度の役に立つならばそれも結構と言っている(『會津八一伝』 吉池進、p.653)。これは先の実物教育の重視の考えに基づくものであろうが、敦煌などにおけるウォーナーをはじめとする外国人研究者の所業を批判する立場とは遠いことを示していると言えよう。
最後に、法隆寺の西円堂の近くにあるウォーナーの供養塔には、「同博士ローレーヌ夫人より託された遺品三点を収めている。遺品は博士の少壮時、当時渡米していた岡倉天 心の贈った水晶の勾玉と漢時代の塗金小金具、これは常に博士の机上にあったもの。右を古代燃紙漆塗りの籠に入れて収めてある」と前記『會津八一伝』(吉池進、p.650)に書かれていることを付記しておく。(2013年10月)
→エッセイ ウォーナー伝説と敦煌
ウォーナー伝説と敦煌(続き) |