「読者論」の吟味  
読者論ノート――W.イーザー著『行為としての読書』の批判的検討 (3)
井筒 満

1992.3 文教研機関誌 「文学と教育」158)
   


  「日本語版への序文」をめぐって(続き)

 前回、私は、『行為としての読書』(W.イーザー/轡田収 訳)の「日本語版序文」をとりあげて、次のように指摘した。
 @ イーザーは、「歴史・社会学的方法」と「テキスト理論的方法」との二分法にたっているが、文学作品は、歴史社会的な場面規定においてのみなりたつ文体刺激と文体反応との相互関係において、統一的に把握されるべきではないか。
 A イーザーの言う「否定」や「自己解放」は近代主義的な傾向が強いのではないか。だが、本当は、どのような階級的・世代的な普遍性の中に自己を位置づけるかが問題であり、「否定」や「自己解放」もそのことと関連づけて把握する必要があるのではないか。
 以上の点を前提に、前回の最後に書いたように、文学の「生起性」に関するイーザーの見解にふれた後で、T章の検討に移っていくことにする。
 イーザーは次のように書いている。
 「文学テクストは、作家が外界にアプローチするところから生まれるが、既存の世界に対してそこには存在しない視界、あるいは遠近法を開く限り、生起性を獲得する。たとえ既存の世界を単に模写する文学テクストであってもテクストに〈反復〉される世界は、すでに変容されているであろう。ところで多くの場合、テクストの形をとって示される作者の外界のアプローチは、生活世界で支配しているさまざまな世界観、システム、解釈図式、構造に穴を穿つ。従って、文学テクストは、いずれも、特定の組織化された世界の中で成立し、またそこでの現実構成をモデルとしながらも、その世界に対して選択的な関係をとっている。こ のように外界から特定の要素が選択され、テクストに埋めこまれると、それらの要素は意味が変わる。すなわち、文学テクストは選択をもとに構成されるために、外界を組織化している骨組みをゆるがせ、その有効性を問いかける。生起性はこの選択によってもたらされる。いずれにしても現実を横成している要素がその配置からはずされれば、関係づけに穴が空くわけで、これは出来事の意味をもつ。」
 「テクストの生起性は、外界から選択された要素がテクストの中で再び別個の結合関係におかれることによってさ らに高められる。」
 イーザーはここで、作者による文学作品の創造過程に言及している。「既存の世界」から特定の要素を選択し、テクストの中で別個の結合関係におくことによって、逆に、「既存の世界」の骨組みをゆるがし、その有効性を問いかける。こうして得られる新しい視界こそが、文学の生起性を生み出すというのである。
 だが、「既存の世界」の骨組みをゆるがすと言う前に、作者がアプローチする対象としての「既存の世界」とは何かが問題にされるべきではないだろうか。また、イーザーの説明では、作者は、始めから、「既存の世界」から諸要素を自由に取捨選択できる存在として登場してくるがそれでいいのだろうか。
 これは、文学の対象とは何かという問題でもある。この問題について、熊谷孝氏は、次のように指摘している。
 「文学・芸術にとって現実」とは、作品本来の鑑賞者の「リアリティーにおける現実ということ以外ではない。言い換えれば、鑑賞者の主体――鑑賞者という媒体――に屈折した事物=世界の反映像としての現実のことにほかならない。」(『芸術の論理』一九七三年刊)
 「現実は、本来、動的なものであり多義的なものである。それは、個々人にとってあくまでサブジェクティヴなものである。そして、サブジェクティヴなものであればこそ、それは〈現実〉なのである。」(同)
 「世界(客観世界・事物)は一つだが現実は多である。多岐多様でありそれ自体揺れ動くところの現実を、それをあくまで現実として移調・変形――虚構においてつかみ直そうとする文学の言語操作は、それぞれの創造主体、それぞれの創造完結者(=鑑賞者)の主体にとっては個別的、個性的なものであらざるをえない。」(同)
 また、『井伏文学手帖』(一九八四年刊)には、次のような指摘がある。 「(現実)は誰にとっても自明なものとして対象的に在る、というようなものじゃない、ということですね。だから、今はコピイばやりの時代ですが、それはコピイすることが不可能なものではないのか、と思うわけです。ですから、特に〈文学の現実〉とか〈文学的現実〉というふうに私たちが呼んでいるものは、いわゆる意味の現実の再現、再現された現実のコピイとは全く別の性質のものなわけです。〈文学的現実〉というのは、ある文学的個性によるところの、それこそが現実であるところのもののことだ、ということなんです。」   「現実は、その限り主観的なものです。文学的現実も、その限り文学個性による、すぐれた意味における主観的なものです。つまりは、自分にとって、あるいは自分たちにとって現実であるものの発掘・発見のないような没個性的なコピイ的な作品は、文学評価の対象にはなり得ない、ということなのですが。」
 イーザーの説明だと、作家は、「既成の世界」一般にまずアプローチしていることになる。「内なる読者・鑑賞者」という視点がイーザーにないからこうなるのだが、これでは、作家が新しい現実像を探求していく過程がはっきりしてこない。「テクストの形をとって示される作者の外界アプローチは、生活世界で支配しているさまざまな世界像システム、解釈図式、構造に穴を穿つ」という。だが、そうしたアプローチが可能になるのも、作家が自分にとっての現実を凝視し、「自分にとって、あるいは自分たちにとって現実であるもの」を探求していくからである。そして作家の主体による現実の反映というのは、内なる読者との対話という媒介をへての反映であり、だからこそそれは、「自分たちにとっての現実であるもの」の反映という形になるのである。で、また、その過程で、自分たちがとらわれていたもの、精神の自由を奪っていたものの姿が明確になり、それとの対決がおこなわれるということにもなる。
 これは後の章でくわしく扱うことになるのだが、ここで少しふれておくと、イーザーは「反映概念」を機械的に理解しており、「新しい視界」を獲得することと「反映」とは相容れない関係にあるように考えている。だが、単なるコピイやなぞりは本当の反映ではない。それは、熊谷氏の指摘を読めば明白であろう。イーザーの作家像が、どこか静的な印象を与えるのも、彼の「反映概念」と探くかかわっていると思うが、とりあえず、先に進もう。

 イーザーは、テクストの受容過程について次のように書 いている。
 「テクスト受容に当って進行する意味形成過程は、つねにテクストの選択的な具体化でしかありえない。生起性が特徴となるテクストの多義性は、加工され選択を経るに従って一義的になる。この一義化の基盤となるのが、読書過程における〈一貫性の形成〉である。テクストのセグメントに共通する一貫性を見つけられなければ、テクストの理解はできない。つまり、生起性をもった多層的な意味のすべてが具体化されることはありえず、そのため、読書とともに進行するテクストの意味形成過程は、いつも顕在化しうる要索のなにがしかを見落とすか切り捨てている。顕在化 は、どのような読書過程にあっても、読者個人の行動様式や読者が共有する社会・文化的コードに依存している。この種の媒介要素によって読書行為における選択が左右され、個々の読者に一貫性を形成する基盤を与え、それによってまたテクストの意味の広がりを作り出す前提になると考えられる。」
 この部分は、後の各章でイーザーが詳しく論じているところであり、また、イーザー理論のすぐれた側面として良く話題にされる部分である。私も、個々の作品を具体的にとりあげて、イーザー理論の妥当性を検討することを予定 しているのだが、とりあえずここでは次の点にふれておきたい。
 まず、「文学テクストの多義性」ということにづいて。これは、文学の表現自体のもつ多義性をどう把握するかという問題である。さっき引用した熊谷氏の指摘にあったように、文学の表現は、作者が、本来の読者の体験を媒介する過程においてなりたっている。さらに詳しく言うならば作家は、「読者大衆のあいだに分け入って、もろもろのその生活の実感、その感情、その体験を自己に媒介しつつ、それに『ことば』を与え、思想にくみあげ、それを読者(本来の読者)に向けて」返し、「また、そのことで、読者を相互に媒介しつつ、そこに相互の体験の交換・交流のための伝え合いの場を用意する」ということが根本にあるからこそ、「多義性」が生み出されるのである。
 こうした観点から言えば、「一貫性」の発見によって、「多義性」が「一義化」されるという説明の仕方は不正確であるように思える。「一貫性」の発見とは、その作品を貫く基本的な方向性の発見ということだろう。言い換えれば、「多義性」がどのような方向性における「多義性」であるかをつかむということである。そして、その理解のための不可欠な条件が、前回も強調した「場面規定」なのである。
 イーザーは、「読者個人の行動様式や読者が共有する社会・文化的コード」が、「個々の読者に一貫性を形成する基盤を与え」ると書いている。個々の読者の体験内容が表現理解の前提だということはその通りだが、作品の方向性をふまえた作品との真の対話を実現するためには、「自分という受け手が、どういう生活の実感と実践に生きている自分であり、また、本来のその言表場面とどういう関係にたつ自分であるのか、という反省による視点の自己調節がそこに要求される」(熊谷氏)のである。この点は、過去の作品を現代の私たちが読む場合の読書過程を、イーザーがどう分析しているかを検討するなかでまた問題にしたい。
 「日本語版序文」でだいぶてまどってしまった。続いて I 「問題領域――文学の解釈は意味論と語用論のどちらに かかわるか」の検討に移ろう。


  T章の論点 (1)

 TのA「部分芸術対普遍的解釈」の中で、イーザーは、ヘンリー・ジェイムズの作品を材料にしながら、「虚構テクストに対する全く異なった二つのアプローチの態度」について論じている。
 一つは「作品の意味究明を標榜する文学解釈」である。そこで「解釈」は「作品からその隠れた意味をとり出すこと」であり、「意味とは作品からそのままそっくり外しとれるような、一つのもの」である。「隠された秘密としての意味を、論証という手続きをへて割り出し、明らかにする」ことが、「解釈」の任務だということになる。
 「意味は客体とされ、主体は、一つの準拠枠に基づく対象規定を目的として、対象、つまり客体に向かい合う。このようにしてえられる普遍妥当性の特色は、対象規定が遂行されると、そこには主観の痕跡が払拭されているばかりではなく、主体そのものを超越した規定がえられるところにある。」
 もう一つは――これがイーザーの立場だが――次のよう なものである。
 「テクストからえられるイメージとしての意味は、テクストの記号と読者の理解行為との相互作用の産物である。しかもこうした相互作用から、読者は自己を消去することなどはできない。むしろ読者は、テクストによって触発されたイメージ形成という能動性を通じて、テクストの状況に参加し、テクストが作用するのに必要な条件をつくり出す。このように、テクストと読者とが相互に一つの状況を作りだすと考えるならば、ここでは主体−客体の対立関係はもはや通用せず、意味ももはや規定の対象ではなく、作用としてしか経験しえない。」
 「テクストの作用は、読者の参加をもって始まる。それに対して、説明はテクストを既存の準拠枠に結びつけ、それにともない、虚構テクストによって初めて表現が与えられるものを平板化してしまう。」
 前者のような「解釈」を批判するところから、イーザーの受容理論が出発したことは「日本語版序文」でも強調されていた。文学作品の意味を、作品の中に封じ込められた「もの」のように考える文学観を批判し、「イメージとしての意味」を提示している点には共感できる。
 また、「相互作用から、読者は自己を消去することなどできない」という点の指摘も、文学現象の独自性にふれている。だが、イーザーの場合、イメージと概念との相互関係ををどう把握しているのだろうか。また、文学研究における「説明」のあり方をどう考えているのだろうか。前者のような「説明」が否定されるからといって、説明そのものが全て否定されてしまうわけではないだろう。
 これらの点を考えるために、概念中心主義的文学観に対する熊谷氏の批判とイーザーのこれらの見解を対比してみ よう。
 『言語観・文学観と国語教育』(一九六七年刊)の中で熊谷氏は次のように論じている。
 「国語教育界に支配的な言語主義は、ところで、概念中心主義とでもいうべき汎言語主義であります。」
 「そこでは“ことば”と“概念”とが混同され、同一視されている。また、そこでは“概念”と“形象”とが機械的に切りはなして考えられ、概念が概念だけの自己操作によってひとり歩きできるような錯覚がおこなわれています。 乾孝氏の言葉を援用すれば、そこでは、『概念は記号の中で完結したもののように誤解されている』(『形象コミュニ ヶーション』・誠信書房刊)のです。」
 「一定の作品(じつはその作品の文章)には客観的な一定の内容が概念として盛りこまれている、と考える文学観、つまりは、一定の記号の中には一定量の中身が間違いなく封印されて、盛りこまれていると考える言語観。したがって、その封を切って、その中身をどれだけ、またどこまで配分しわからせることができたか、という指導の発想。さらにまた、それをわからせるためには、要するにそのマーク(記号)をマークとして追求させればいい、というその指導の発想。――これは、“ことば”を実体であると考える汎言語主義プロパアな観念と発想です。」
 だが、「概念的認知が概念だけの自己操作によって成り立ちえないように、形象的認知も形象だけの自己操作によってひとりポツンとそこに成り立つわけのものではない」
 「そこに生まれる感動が、概念のはたらきに支えられ抽象的思考に媒介された“わく組みによる認知”(=範疇的認知)にもとづくものであることも確かです。」
 「この“わく組による認知”においては、認知(=感動)の主体である自分自身が対象化されます。」                                                      

 (この項つづく)

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