「読者論」の吟味  
読者論ノート――W.イーザー著『行為としての読書』の批判的検討 (完)
井筒 満

1996.6 文教研機関誌 「文学と教育」173)
   

  1 「歴史・社会学的方法」と「テクスト理論的方法」

 「読者論ノート」の連載を今回で一応終えることにする。 したがって、今回は、「読書論ノート」(1〜9)で指摘した論点の整理(イーザーの受容美学と熊谷孝の芸術コミュニケーション理論との比較検討)と、三章「読書の現象学」について(9)で書き残した点の補足とが主要な内容となる。いずれ機会をみて、四章の検討を含め、全面的に書き直してみたいと思っている。

 「厳密な意味での「受容」は、テクスト加工の記録という現象に目を留め、もっぱら、テクスト受容の条件となる読者の思考態度ないし反応を伝える証言を研究対象とする。だがテクストそのものは同時に〈受容の予示〉を行っており、それゆえ潜在的な作用力があり、この諸構造がテクスト加工をひき起こし、またある程度まで加工を左右している。」(『行為としての読書』/W.イーザー著/轡田収訳/岩波書店)
 「それゆえ、作用と受容とは、受容美学研究の基本的な出発点であり、目標設定に応じて、歴史的・社会学的な――受容にかかわる――方法をとるか、テクスト理論的な――作用にかかわる――方法をとるかが決まる。そこで、真の意味での受容美学は、この二種の異なった目標設定を相互に斟酌し統合した研究と理解することができる。」

 イーザーは、「歴史的・社会的な方法」と「テクスト理 論的な方法」とを「相互に……統合」することをめざしている。だが、その分析方法を見ていくと、イーザーは、「作用」と「受容」との関係を統一的に把握していないことがわかる。作品の作用を示すイーザーの基調概念は「内包された読者」である。だが、「内包された読者」とは、テク ストにあらかじめ内具されている「役割の構図」なのであり、歴史社会的規定を切り捨てたところに成り立つ、「作品の構造」なのだ。
 もちろん、イーザーも、「歴史的な特殊性」に言及はしている。だが、イーザーは、歴史社会性を切り捨てた起越論的モデルである「内包された読者」をあくまで前提としその中に「歴史的特殊性」を挿入するという方法をとっているのである。「作品の構造」と受容条件としての「歴史的特殊性」とは、コップとその中の水というような関係にあるわけである。
 だが、読者の反応をもたらす「作品の構造」「作用」は一定の歴史社会的条件の中に生きる作者と読者との対話過程を通じて創造されるのである。その場合、作者が対話する読者とは、「現実の読者」の再構成を通して作者の内面に反映された「内なる読者(作品本来の読者)」なのである。熊谷孝は、その点を次のように指摘している。
 「作品を書くということは、読者・鑑賞者のそのような声なき声に耳を傾けつつ、そのような読者――それは、いわば作者の〈内なる読者〉である――へ向けて視座を用意 しつつ書く、ということである。したがって、そこに設けられた〈読者の視座〉にこそゆがみない作家の創造主体が反映されているはずなのである。なぜなら、作家の側から言って、自己と読者との唯一の伝え合いの通路となりうるものは、自分自身で用意したこの〈視座〉以外には求めえないからである。」(『芸術の論理』)
 「読者の視座」は、その作品の文体を通して明らかになる。だから、「読者の視座」を明らかにしていく過程は、その作品の文体的特性を明らかにしていく過程である。そして、文体は、その文体を通してでなければ実現できなかった対現実的な発想――その歴史社会的な生活場面を生きる人間主体・社会的人間集団に固有な発想――を反映している。
 「作品の構造」・「作用」は、「読者の視座」・「文体的特性」 として、また、「作用」と「受容」の関係も「文体刺激」と「文体反応」との相互関係として把握されなければならない。その文体ならではの刺激が刺激として成立する条件を明らかにすることと、その刺激に反応しうる主体の条件を明らかにすることは相即的である。そして、それらの条件は、歴史社会的場面規定においてこそ明らかにしえるのである。
 文学作品は、「歴史・社会学的方法」と「テクスト理論的方法」との二分法によってではなく、歴史社会的な場面規定においてのみ成り立つ文体刺激と文体反応との相互関係の追究を通して統一的に把握されるべきではないか。


  2 「近代主義」

 「……近代〔特にアヴァンギャルト〕は、古典芸術の主軸となっていた〈調和)、(宥和)、〈対立の解消)、〈完結性)に対し、ことごとく否認宣言を表明している。そのため、近代文学の基本傾向である否定性は、社会的行動から日常の知覚に及んで、われわれのものの見方を支配している慣習を絶えず攻撃の的にしている。従って、近代芸術に触れると、必ずわれわれに向かってくるものがある。そして、なぜそのような反省を迫られるのかという問いを絶えず突きつけられる。ここに、意味を求めるのではなく、作用を質す問いへの移行が起きざるをえなかった理由がある。」 (翻訳書/「日本語版への序文」)
 イーザーは、「外界を組織化している骨組みをゆるがせ、その有効性を問いかける」点に、文学の否定の機能の意義を見いだしている。既成の規範から自己を解放し、精神の自由を確保することが文学の果たすべき役割だと、彼は考えているわけだ。だが、どのような立場(視点的立場)にたった、何を志向しての否定なのかという点がはつきりしない。むしろ、一定の視点的立場を確立すること自体に否定的なのではないかと思う。「〜から」だけが強調されていて「〜へ」が不明確である。そしてここに、イーザーの近代主義的発想があるのだ。
 熊谷は、近代主義について次のように指摘している。
 「それは、さし当たって、全体から個へ、未分化的全体から個へ、という近代的な思考の発想が、いわば分化のしっ放しの格好のものに滑ってしまった状態のことを意味している。分化のしっ放し、されっ放しの個は、全体の中の個、全体に対する部分として位置づけられる時が永久にないという意味で孤独であり、孤立的である。」(『芸術の論理』)
 イーザーの主張する、文学作品によって既成の規範・慣習から解放される読者像は、「分化のされっ放しの個」・「全体に対する部分として位置づけられない孤立的な個」という性格をもっている。だが、このような「解放」・「否定」は真の創造性に結びつくような積極性を持ちうるのか。
 既成の規範から解放された自己であっても、それはあくまで階級的・世代的な自己なのである。自己解放とは、実は自己を形成している「私の中の私たち」を組み換えたと いうことである。それは言い換えれば、新しい階級的・世代的な普遍性の中の個として、自己を位置づけなおしたということである。そして、このように自己を位置づけ直していく過程というのは、当然、自己が新しい視点的立場を獲得していく過程なのである。


  3 「反映」と「典型」

 「……部分的性格は、現代の芸術形式にすべて固有であり、およそ芸術にとどまる限り、つねに特殊な現実の顕在化しかできない。ところが特殊な現実は、部分芸術をもってしては、もはや直接的な表現を与えられるものではない。現実を形象化するためには、模写であろうと反映であろうと、現実に全体を代表する性格をとらえ返さねばならないのに、部分芸術はすでにその力を失っている。」(翻訳書 P 一九)
 「……文学テクストも、ときには時代精神の証言とか社会状態の反映、あるいは作家の神経症の現れ等々と理解された。文学は記録と同列に扱われ、文学と記録とを隔てる次元が切りつめられた。……だが、文学テクストの伝達能力は、芸術作品をその時代の支配的思想ないし社会システムの代表者と見るようなバラダイムからは導きだせない。……現代の部分芸術が、われわれに指摘してきたところによると、芸術はもはやそのような全体を代表とする写像と してとらえられるものではなく、むしろ芸術の主要な機能の一つは、支配的価値によって生み出されたマイナス面を露呈し、もしかするとその埋め合わせをするところにある。従って、芸術は時代のさまざまな価値を代表するものではありえない。……作品と外界の社会的歴史的規範ならびに潜在的な――歴史的、社会的に異なった状況にある――読者の規範との相互作用が、われわれにとっての重要な考察領域となる。」(翻訳書/P 二一〜二)
 イーザーは、文学の特性を規定するものは読者との相互作用であるとして、反映論を否定している。だが、イーザーの反映概念に問題がある。イーザーは、既成の社会規範や体験的事実の受動的な引き写しとして「反映」を考えているにすぎない。だが、文学における「反映」とは何か。
 熊谷は次のように指摘している。
 「文学・芸術にとって現実」とは、作品本来の鑑賞者の「リアリティーにおける現実ということ以外ではない。言い換えれば、鑑賞者の主体――鑑賞者という媒体――に屈折した事物=世界の反映像としての現実のことにほかならない。」(『芸術の論理』)
 「作家の任務と役割は、鑑賞者として自分が選びとった対象のアクチュアリティーとリアリティーに立って行動することである。作家のその行動が具体的には、作家が自分自身の内側に鑑賞者――内なる鑑賞者――を掘り起こし、その〈内なる鑑賞者〉相互の対話を媒介しつつ、その話題の展開、そこでの主題的発想の高まり発展等々に具体的なイメージを与えていく作業になるのである。」(同右)
 文学の対象は、鑑賞者の主体に「反映」した現実であり、また、「内なる鑑賞者」相互の対話を媒介する過程――それは相互作用を作者が組織していく過程だ――を通して現実の反映自体が深化していくわけだ。文学作品を読者が読む場合も、そのような対話過程に参加することによって、自己の現実反映のあり方を見つめなおしそれを変革していくことになるのだ。
 文学における「反映」とは、このように読者=鑑賞者を媒体にする「反映」であり、読者=鑑賞者の対話過程という相互作用による「反映」である。文学を反映の独自の形態と認めることは、作品と読者との相互作用を否定することにはならず、むしろ、「反映」であるからこそ独特の相互作用が実現するのである。
 また、文学の創造が「内なる読者」との対話において実現するということは、文学作品の表現が「普遍性」をもっているということである。イーザーの言い方を使えばある 「全体」を「代表」している。だが、この「普遍性」とは、イーザーが指摘している「支配的思想」や「支配的価値」ではない。
 「……プシコ・イデオロギーというか生活というか、実人生をどう生きるかという発想の面で通じ合えるものを持つ相手に対して何らか訴えるものがあるという、そういうユニヴァーサル(普遍的)なもの、つまり普遍性(ユニヴァーサリティー)を持つのが文学というものだ」(熊谷孝『井伏鱒二』)
 右のような「普遍性」を追究するところに文学(芸術)の独自性がある。「普遍性」はその人間主体の世代性・階級性によって規定されている。そして、ある世代性と階級性をもった人間主体の実践――その実践の方向性を明らかにしてゆく現実の動的な全体像、それが「典型」なのであ る。
 「典型」とは「普遍を内包した個」である。だが、それは、イーザーが考えているような現実の単なるコピーではない。熊谷は指摘している。
 「典型」を造型するとは、「体験に与えられた知覚的現実を「ありのまま」に描くことなどではない。書くことで可変性と可能性における現実の姿を探る営為である。何のためにと言えば、その人間主体にとって「可能にして必要」な、実践の方向を具象的なイメージとして見きわめるためにである。」「典型」とは、「実践へ向けての自己の行動の選択に必要な、未来をさきどりした現実のイメージ」である。(「基本用語解説」)
 もちろん、この場合の「自己」は、「孤立した自己」ではなく、何らかの「普遍性」につながつていく「自己」なのである。
 また、イーザーは、その時代の支配的思想のマイナス面を「露呈」するのが文学の機能だというが、支配的思想のマイナス面を発見しうるような主体(文学の創造主体)はどのようにして形成されるのか。マイナス面は、その思想を支配的思想たらしめている社会的諸条件内部の矛盾を見つめ、またそのことを通してあるべき自己の生き方を模索 している人間主体によって発見されるのではないか。「マイナス面の露呈」はそれをなしうる主体が形成されていればこそ可能なのではないか。そして、その主体は、世代性・階級性を担っているはずであり、作者は、世代性・階級性という普遍性とのつながりにおいて現実を対象化していくはずである。イーザーは文学がもたらす「新しさ」についてさかんに言及する。だが、イーザーは典型とは何かを解明しようとしないために、文学のもたらす「新しさ」が「典型」であるがゆえの「新しさ」である点に眼が向かないのである。


  4 「日常性」と「芸術性」

 「テクストと読者との関係が、発信者と受信者という情報理論モデルにそのまま当てはまりさえすれば問題はない。そのためには、テクストと読者の両方に共通し、内容が確定したコードの存在が前提となり、メッセージの受信が保証されていなければならない。その場合、メッセージは発信者から受信者への一回路をもつのみである。/ところが文学作品においては、メッセージは二重の回路を経て伝達される。すなわち、読者はテクストの意味というメッセージを、自ら構成しながら〈受信〉するのである。共通し、内容を確定したコードはない。共通コードに相当するものは構成過程で次第に作りだされてくるといえよう。」(翻訳書 P 三五)
 イーザーは、文学作品において「共通し、内容の確定したコードはない」という。なるほど、A→Bというような一方方向の伝達に奉仕するために作られた「コード」はそこにはない。だが、文学的コミュニケーションが成立するためには、作者と読者との間に共通する基盤がなければな らない。作者と読者とが共通する客観世界の中に生き、実践主体としての自己の課題意識によって対象化した客観世界(=現実)を、広い意味で共有していることが必要だ。イーザーは、日常的コミュニケーションと文学的コミュニケーションとの違いを強調するが、右のような点において両者に違いはないはずだ。そして、こうした連続面をふまえてこそ、逆に、文学的コミュニケーションの独自性を明らかにすることも出来るはずなのである。
 また、イーザーは、「読者はテクストの意味というメッセージを、自ら構成しながら〈受信〉する」ところに、文学作品と読者との対話関係の特徴をみている。だが、こうした関係は、文学作品を読む場合にだけ生じるのだろうか。AがBに伝えるということは、AがBをくぐって自己の体験を見つめ、組織しなおしつつBに伝えるということであり、また、BがAを理解するということは、BがAの言葉をてがかりにし、自己の体験を組織しなおすということである。いずれにしろ、「自ら構成しながら〈受信〉する」という関係があるわけだ。いやそれにとどまらず、AとBとが相互に伝え合うことによってAがA’にBがB’に発展するという過程がここにあるのだ。日常性におけるコミュニケーションにおいてもこのような過程は存在する。イーザーはこうした人間的コミュニケーションの共通性(伝え合い)をふまえないで、文学作品の「特殊性」を強調する。 だが、こうした「特殊性」の強調は、その「特殊性」の把握自体に様々な歪みを持ち込む。
 「虚構言語と日常言語とは、決定的な点で共通性を失う。虚構言語は、現実の場面との結びつきがない。それに対して、発話行為というものは、成功するためには、場面が高度に規定されていなければならない。こうした場面が欠如 しているからといって、虚構言語が成立しないということにはならない。むしろここに、虚構言語が通常とは異なった言語使用をしており、また特殊な性質をもっていることを明らかにする糸口がある。」(翻訳書/P 一〇五)
 「……文学の言葉が、現実の対象と結びつかないのは、それが表現そのものでしかありえないということである。従って、虚構言語は、自己反映的であり、言語活動そのものの表現だということができよう。象徴を用いる点では通常言語と共通するが、経験的対象との結びつきはない。だが、虚構言語は言語活動そのものを表現することによって、言語活動そのものや、言語活動の働きを明らかにすることができる。約言すると、虚構言語は、読者に対して場面形成およぴ実在しない想像上の対象を産出するための指示を与えるといえよう。」(翻訳書/P 一〇六〜七)
 イーザーはここで、「現実の場面」「経験的現実」から「虚構言語」を切り離すことに躍起になっている。「虚構言語」が経験的現実の引き写しではなく新しいものを生み出すという点を強調するためだ。だが、「虚構言語」をそう規定すると、「日常言語」は、既成の慣習の枠内で出来合いの情報をやりとりするものになつてしまう。なるほど私たちの日常会話がこんな状態に陥ってしまう場合もある。だがそれは日常的コミュニケーションの疎外態にすぎないのである。日常的コミュニケーションにおいても、AがA’に、BがB’に発展する過程は存在する。それは、新しい内容が生成する過程であり、また、A・Bそれぞれが、自己と相手の置かれている場面をとらえなおしていく過程である。つまり、日常的なコミュニケーションにおいても、新たな場面構成が絶えず行われているのである。
 要するに、日常的コミュニケーションも文学的コミュニケーションも歴史社会的場面と深く結びついているし、そのコミュニケーションを担う主体が、自己の生きる場面をとらえなおしていく過程において、これらのコミュニケーションも実現するのである。
 また、文学的コミュニケーションにおける場面形成についていえば、3で指摘したように、「典型」(普遍を内包した個・普遍の中に位置づけられた個)の造型を通して、読者相互を媒介し、読者相互の対話の場を用意するところにその特徴がある。そこに用意される対話の場は、日常性の単なる否定ではなく、日常性に根ざしながらそれをさらに発展的に高めていくという機能をもっているのである。
 イーザーは、歴史社会的場面と文学的コミュニケーションとを引き離してしまうために、文学の言葉操作の独自性が逆に見えなくなってしまい、「虚構言語は……言語活動そのものの表現」であり、「言語活動の働きを明らかにすることができる」などと言うのである。だが、言語活動が自己目的化されたとき、言語活動はその生産的機能を失ってしまうのではないか。熊谷は、「第二信号系」としての言葉の機能について次のように指摘している。
 「第二信号系というのは、信号の信号――すなわち二重の媒体において事物(=世界)を反映する、そのような組織活動のひとまとまりのシステムのことです。ことばを通して世界を反映する、現実を反映するということは、実は現実について反省する、ということにほかなりません。(ちなみに、反射・反映・反省――それらはひとつながりのことばです。もとは、一つの Reflexion ということです。)反省する? むしろ、反省し続ける、ということです。言い換えれば、反映のしかたを変えて認知を深める……ということです。」(『文体づくりの国語教育』)
 言葉は、このように「世界・現実」の「反射・反映・反省」の媒体であり、そのような媒体として操作されてこそ生産的機能を発揮する。「言語活動」自体を意識化すると いっても、反映機能と切り離して「言語活動」のあり方を意識化することはできないはずだ。自己の「反映のしかたを変えて認知を深める」ためにこそ、「言語活動」のあり方を対象化する必要があるのだ。


  5 「文学の機能」

 「……およそすべての意味システムないし思想体系は、選択決定によっていくつかの特定の可能性を排除し、そのために必然的に欠落を内包している。文学がとりあげるのは、まさにこうした意味の欠落部分である。……虚構によって、むしろ支配的意味システムから排除され、従って、そのようなシステムでとらえられた生活世界に組み込む余地のない領域のあることが伝えられる。従って、虚構は現実の対立ではなく、むしろ現実の補完と考えられる。」(翻訳書/P 一二三)
 「……テクストは、われわれがなにによってとらわれているのか、という真相を明らかにする。/同時代の哲学ないしイデオロギーといった支配的な意味システムと違って、虚構テクストは選択決定を明示しない。そこで読者は、既知の価値に対するテクストのコード転換をたよりに、テクストで行われている選択決定の動機を自分で発見せざるをえない。この過程でテクストの伝達が遂行され、もはや既知の枠組みをもってえられない現実が読者に仲介される。」(同/P 一二七)
 「1 虚横テクストは読者に対して生活世界の中で与えられている自分の立場を越えでる機会を与える。/2 虚構テクストは特定の現実の反映などではなく、読者によって意味の違う現実の完成、あるいは、読者自身の現実の拡大である。」(同/P 一三四)
 「既知の枠組みをもってはえられない現実」を「読者に仲介」するのが文学の機能だという指摘は、この部分だけをとりだして読む限り妥当な指摘だろう。だが、その「仲介」は、「支配的意味システム」の「欠落部分」に関する 「現実の補完」として位置づけられている。「補完」「完成」「拡大」とは何を意味するのかが問題である。この点を明 らかにするために、イーザーが依拠している「社会システム論」の特徴をみておこう。「現代哲学概論」(岩崎允胤・鰺坂真 編著)では次のように指摘している。
 「社会システムの安定性(均衡、秩序)が前提とされるため、この立場の社会理論は、社会学における保守主義的傾向を代表することになりやすい、という特徴をもっている。」
 「社会体系の内容をなしているのは、相互行為である」が、「相互行為過程を維持する傾向が……ア・プリオリに前提されている」ため、「相互行為間の均衡が、いかにして成立するのかという問題に対する歴史的な理解の視点は、はじめから欠落している。」
 相互行為過程における人間の「役割」を重視しているが「役割の具体的内容」である「支配−被支配という階級的関係」を問題にしえない。

 イーザーの「意味システム」概念は「社会システム論」の「均衡至上主義的」発想と結びついている。「均衡至上主義」を前提とし、「階級関係」を捨象してしまえば、階級的諸条件に規定された、「その行動場面(生活場面)に おいて実践する人間主体、実践する社会的人間集団」(熊谷孝/『芸術の論理』)において反映された「現実」の具体相――「現実」の過程的構造やそこに存在する「現実」変革の契機――には眼がむかない。イーザーが、「補完」という言葉で文学の機能を説明しようとするのも、そこに根本の原因があるのではないか。
 イーザーは、文学の二つのタイプとして、「支配的意味システムの弱点を補う」文学と「弱点を衝く」文学とをあげている。両者の違いは、レパートリイ(既知の規範・慣習)との一致度が多いか少ないかという点にある。「弱点を衝くときには、価値否定の程度が高い」わけだが、この「否認」は、「支配的意味システム」が排除した領域(新たな意味システム)が存在することを読者に意識化させるための「否認」である。だが、この新たな意味システムに対して「支配的な意味システム」は、前者が排除した領域を代表しているわけである。つまり、両者は、虚構テクストにおいて、相互補完の関係――「均衡関係」において結びついているのである。
 イーザーは、レパートリイ相互を「水平関係」に並べかえるのが「弱点を衝く」文学の特徴だとしているが、こ の「水平関係」は、相対主義的にレパートリイ相互を関係づけたところにうまれる「均衡関係」である。
 ところで、「弱点を衝く」文学はどのような歴史社会的必然性に基づいて生まれてくるのだろうか。イーザーの場合その点がはっきりしない。弱点が衝けるようになるための条件は、新しい価値観・モラル・可能性が読者の現実の中に生成しつつあるからだということだ。文学はそれをくみ上げ、再組織した形で読者に返し、そのことによって読者の日常性自体を高めていくのである。
 だが、イーザーは、虚構テクストの理解を可能にする条件として、読者の意識の中ですでに存在している「支配的意味システム」にはさかん言及するが、いま指摘したような読者の日常性についてはふれない。これでは、作品と読者との相互作用も解明できないのではないか。
 結局、次のようになる。「支配的意味システム」をAと し、Aによって排除される領域を(a)としよう。すると テクスト外の現実(現実のモデル)はA(a)となる。これがテクスト内にとりこまれると、a(A)という関係に変えられるわけである。しかもA(a)とa(A)とは補 い合っているわけだから、「現実の拡大」とはA+aということになる。つまり単純化していえば、文学の機能が足し算方式で説明されていることになるわけである。


  6 「既知」と「未知」

 「……1 既知のものの価値転換によって、読者はまず第一にテクストの中で価値を失った規範を適用しているのは、本来自分にとって既知の状況であるために、状況に対する意識が鮮明になる。2 既知のものの価値転換は、テクストにおける一種の頂点を示し、それとともに既知のものが記憶の中に後退していく。だが、テクストの中に等価系を求めるためにはこの記憶に頼るほかはなく、その限りで既知のものと対立するか、あるいはそれを背景として構成される。」(翻訳書/P 一四一〜二)
 「文学テクストでは……既知の事柄は未知のものを理解する助けとなるが、逆にその未知のものは、われわれが既知の事柄について懐いている理解の構造を組み換える。こうした変化は、さらに、選択された要素の評価に反映し、それらの要素の位置づけに変動が生じる。」(同右/P 一六四)
 「既知」と「未知」との相互関係の分析を通して、イーザーは、文学テクストの読書過程を明らかにしようとしている。相互関係を問題にすることはもちろん必要だ。だが、ここでも、5 で指摘したことと同様の問題点がある。イーザーは、「既知のものの価値転換」がテクストの中で行われるというが、作者はその新しい価値観をどこからもってくるのか。また、読者がそれを自分のものにしえる主体的条件は何か。イーザーは、「価値転換」を自明の前提としているだけで、その基盤を問題にしない。読者の体験の中からは既成の 「規範」だけを抜き出し、そうした規範から自由になっている作者――どうして自由になりえたのかはよくわからない――が、その「規範」(既知のもの)の価値転換を行うという図式をイーザーは作り出しているのである。
 したがって、作者は、イーザーの場合、万事お見通しの立場で読者を誘導する存在となっている。また、作中人物を作者がどのように創造するかについても次のように指摘 している。
 「……選択された社会規範ないし文学上の引喩は、人物、筋、語り手などの構成要素に振り分けられ、一定の価値判断が加えられる。……原理的には二種類の〈選別〉がある。すなわち、選択された規範は、主人公か脇役のいずれかによって代表される。」(翻訳書/P 一七五〜六)
 選択した規範を振り分けて、作者は、作中人物を作り上げるというわけである。これでは作中人物は作者のあやつり人形ではないか。文学作品が作者と読者との対話過程において創造されることをイーザーが明確に把握していないからこそ、作者や作中人物の位置づけがこうなってしまう。
 熊谷はこの問題について次のように指摘している。
 作者によって「ある性格を与えられた、その人物たちは、やがて自分自身の性格にしたがって行動しはじめるようになる。」このような作中人物の「抵抗」は「究極において読者における抵抗」にほかならない。(『言語観・文学観と国語教育』)
 歴史社会的な場面の中で行われる作者と読者との伝え合いの過程――また伝え合いによって実現する相互変革の過程、その過程のなかに「既知」と「未知」とを位置づける必要がある。
 読者の中に本当に新しい「等価系」(イーザーの用語をかりに使うならばだが)が成立するためには、読者の中にその新しさにつながっていくものがなければならないし、それが再組織される必要がある。作者もまたそのような読者の体験に依拠しながら新しい意味体験(価値体験)の世界を創造していくのだ。


  7 「V 読書の現象学」における「経験」論

 「既知」と「未知」に関するイーザーの見解を、「経験」論に即して再度検討してみよう。
 @「既知のことを再認するだけでは経験の名に値しない。……既知のことを超えたり、あるいはその存立が危うくなる場合に初めて成立する。従って、われわれは潜在的にいつのまにか自分のものの見方に対して真偽判断を行ってお り、それが新たな経験の端緒となる。」(翻訳書/P 二三〇)
 A「読書は、まず、テクストにとらわれることによって、われわれの考え方、ものの見方を過去におき直し、次いで、新たな現在に対してはそうした考え方やものの見方が通用 しないことを明らかにする点で、経験と同じ構造をもってる。……経験は過去に移し換えられても依然として自分の経験であり、ただ、テクストのまだ未知の現在と相互作用を始めるところが違っている。……読書の間に、経験そのものが変化する。これは日常の言い廻しでもすぐに確認できる。すなわち、夢から醒めた感じがするときに、経験がひとつ豊かになつた、という類である。」(同右/P 二三一)
 B「新たな経験の価値は、これまで蓄積された経験の積み換えを行うところにある。他方、経験の蓄積は、積み換えという構造転換の過程で、新たな経験に形態を付与する。だが、この過程で実際に生じたことは、旧来の経験から呼び起こされた感じ方、方向づけ、ものの見方、あるいは価値判断が、新たな経験と融合したときにのみ経験しうる。経験の蓄積は新たな経験が形態をとる枠組を作っており、他方、新たな経験の形態は、経験の蓄積を選択的に組み換える働きを通じて明らかになる。」
 C「美的経験が通常の経験と異なるのは、相互作用の過程そのものが主題となる点にある。……美的経験は超越的な特徴を帯びる。通常の経験獲得が実践的行動に活かされて行くのに対して、美的経験はそのような経験が成立するに至る過程を明らかにする。美的経験というものは、相互作用によって成立する新たな経験を眼目とするよりは、むしろそのような経験の形式そのものを洞察する点にある。」(同右/P 二三三)
 過去の体験の構造転換を通して新しい経験が形成される点(@〜B)にイーザーが注目している点は評価できる。だが、ここでも、イーザーは、読者の「過去の経験」を、その限界が明らかにされる対象・新しい経験のための引き立て役としてだけ扱っている。これでは、過去の経験が「新たな経験」とどうして「融合」(B)できるのかわからない。
 「構造転換」によって、過去の経験の意味づけが変革されるわけだが、その過程は過去の経験が単に疑問視される過程ではなく、自分にとってより積極的な意味をもった経験に過去の経験が転化していく過程なのである。
 また、Cに関しては、4で指摘した問題点(言語活動自体の自己目的化)がここにも現れている。美的経験とは文学体験・芸術体験を指しているわけだろう。文学体験とは自己凝視の体験である。だから、自己の経験の成立過程や成立条件を見つめることが当然そこで行われる。だが、それは、自己の生き方(実践の方向)について形象的に思索するために見つめるのであって、見つめること自体が自己目的化されるということではない。自己の実践のあり方と文学体験のあり方は深く結びついているのである。
 文学体験・芸術体験の成立過程について、熊谷は、映画『二十四時間の情事』を例にして次のように指摘している。
 「舞台は戦後の広島です。若いフランス女性がノーモア・ヒロシマの広島へやってきて、日本の男性と恋をするのです。かりそめの恋、ゆきずりの恋なのですけれど――。」 この旅は彼女にとって自己の戦争体験を忘れるための旅である。だが、そのような姿勢にたっているかぎり「真実の ヒロシマ」はつかめない。しかし、やがて「彼女にヒロシマがわかるときが、つまり意味においてヒロシマを実感するときが訪れます。今はない恋人の顔が、眼の前の恋人の顔とかさなりあつたときにおいてです。……さらにいえば、 自分の過去の体験がヒロシマの体験、日本人のヒロシマ体験、日本人のヒロシマと結びついたときに、自分自身の戦争体験が意味においてつかみなおされた、ということ、先行体験が形成されたということなのです。」(『言語観・文学観と国語教育』)
 「過去における自分の、ある事物とのある接触のしかた、あるいは過去の事物体験、それが、現在の自分自身の行動体系につながるかたちの、ひとまとまりの体験になってきたときに、そういうまとまりをもった体験になってきたときに、それをわたしは“先行体験”とこう呼んでいるわけです。……この先行体験と新しい体験とがいわば同時的にかさなりあってそこに形成される……」(同右)
 「……新しい体験という、その体験の新しさを規制するものが、つまり先行体験のありかたである……」 (同右)
 熊谷は、過去の体験が単なる「素地」に留まっている場合と「素地」が「先行体験」に転化した場合とを区別している。
 まず前者について右の例に即して言うと次のようになる。フランス人女性は、恋人を自己から奪い取った戦争体験をもっている。いま彼女はその体験を忘れようと必死になっている。過去の体験は忘却の対象となっているわけだ。 また、彼女は、そうした忘却のための、ゆきずりの感情によって「ヒロシマ」の現実をみている。自己の過去の体験と現在の「ヒロシマ」体験とは彼女の中で繋っていない。
 後者について言えば次のようになる。この場合には、彼女は、自己の過去の体験を日本人の「ヒロシマ」体験とつながるものとして、つまりそういう「普遍性」においてと らえなおしている。したがつて、「ヒロシマ」の現実を見ている現在の彼女の「ヒロシマ」体験と彼女の過去の体験とが結びついている。言い換えれば、過去の体験が日本人の「ヒロシマ」体験を自己に媒介しうる媒体(先行体験)に転化しているわけである。
 「素地」が、「先行体験」に転化していく過程は、過去の体験を単なる「素地」にとどめていた自己の限界を自覚し否定していく過程でもある。だが、過去の体験は、単にその限界を把握するための対象ではないことは、熊谷の分析によって明らかだろう。
 文学作品の鑑賞において実現する「新しい体験」とは、「日常性における体験的事物に関しての意味の発見」ということである。こうした日常性と芸術性との相互関係をと らえてこそ、読書過程のダイナミックな構造を把握するこ とができる。そして、いままで何回も確認してきたように、イーザー理論の欠陥は、この相互関係を不十分にしか把握していない点にあるのだ。  

 (カリタス女子短期大学)

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