「読者論」の吟味 |
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読者論ノート――W.イーザー著『行為としての読書』の批判的検討 (1) 井筒 満 (1991.7 文教研機関誌 「文学と教育」156) |
読者や読みの主体性を重視する論が、ナラトロジー・解釈学・受容理論などのもとに、急速に強められてきた。それは、作者の権威を相対化し、ある場合には、作者という概念の死さえ宣告する。構造分析やテクストの記号学の延長線上に位置するものといえるであろう。作者―作品―読者の概念が幸福な調和を保ちえた時代を幻想することはできるものの、その対立と相克、ひかえめに言っても対話構造を無視することは、もはやできなくなっている。この説明から、現在の「読者論」が、「解釈学」と密接な関係をもっているらしいということがわかる。(イーザーの「読者論」をあとで検討する場合にも、この点は重要な論点になるだろう。)「読者や読みの主体性を重視する」ことが、解釈学の新しい形態を作り出すことにつながっているとすれぱ、そこで重視されている「読者」とはいったい何かという問題である。それは、「追体験理論」を克服しえているのだろうか? また、「作者という概念の死さえ宣告する」のが、現在の「読者論」だというのだが、そうだとすれば、そこでは「作者」と「読者」が機械的に対置されているだけではないかという疑問が生じてくる。 「作家の任務と役割は、鑑賞者として自分が選び取った対象のアクチュアリティーとリアリティーに立って行動することである。作家のその行動が具体的には、作家が自分自身の内側に鑑賞者――内なる鑑賞者――を掘り起こし、その〈内なる鑑賞者〉相互の対話を媒介しつつ、その話題の展開、そこでの主題的発想の高まり発展等々に具体的なイメージを与えていく作業になるめである。」(熊谷孝『芸術の論理』) 右の指摘にあるような「内なる鑑賞者」という観点を欠いているために、「作者の任務と投割」の本質が把握できず作者否定論にまでつながってしまうのではないか。こうした「作者−読者」論の根底には、作者と読者を孤立的な存在としてとらえ、「私の中の私たち」という人間自我の本質に目を向けない近代主義的発想が横たわっているようである。(この点もイーザーの読者論に即して後で論じたいと思う。) 「作者−作品−読者」の「対話構造」を問題にするといっても、その「読者」とは、まず、現実の読者の再構成を通して作者が自己の内面に掘り起こした「内なる読者(作品本来の読者)」のことであるはずだ。作品を主体的に読むということは、だから作品を媒介として「本来の読者」との対話・対決をつづけながら読むということである。ここで重要なことは、「本来の読者」の姿は、初めから自明なものとして目の前にあるのではないかということである。その作品を読む自己が、自己の主体を自己の実人生との関わりの中でみつめ問い直すという過程――その過程の中で「本来の読者」との出会いが繰り返されるのである。それは、新しい出会いであり、出会い直しの過程であり、そのことによってのみ双方の姿が明らかになっていくのである。(イーザーが「作品の読者による再創造」という問題をどう扱っているのかという問題も、後でとりあげることにする。) さて、高橋氏は、イーザーの読者論について次のように書いている。 (イーザーの「含意された読者」に関連する)いくつかの読者概念の紹介をも含めて、次のようなイーザー論の位置づけを示しておく。〈個別の現実の読者が行うテクストの現実化をパロールだとすれば、含意された読者が現実化する文学作品はラングだということができようか。批評理論にはM・リファテールの超読者(superreader)、S・フィッシュの素質のある読者(informed reader)、E・ヴォルフの意図された読者(intended reader)など何人(?)かの読者が登場するが、これらが特定の現実の読者(群)を念頭においた上での抽象概念であるのにたいして、イーザーの含意された読者は、現象学的、超越論概念なのである。〉(河本仲聖「読書過程の倫理学」『現代の批評理論』第一巻)この説明を読んでまず疑問に思うのは、「ラング」と「パロール」などという枠組みで、文学作品と読者の鑑賞との関係が把握できるのかという点である。文学作品の創造過程そのものが、作者とその内なる読者との対話過程なのである。言い換えれば、そうした対話――鑑賞過程を媒介にしてこそ、表現という営みも実現するわけである。だから文学作品はそのような対話過程の中においてだけ存在するはずである。さらに言えば、「受け手・鑑賞者の感動 においてだけアピアしアピアラントなものになる」ダイナミック・イメージが文学現象であり、「ダイナミック.イメージを受け手に喚起する媒体としての形象(ビルト)が芸術作品」なのである。(前掲『芸術の論理』)感動しうる読者にとってだけ、「媒体としての形象」としての作品が存在するのであり、このような動的関係は「ラング」と「パロール」などという区分では把握できないだろう。 この点は、イーザーたちの「相互主観性」概念のもつ問題点を検討していくと、さらに明らかになると思うが、あとで再びとりあげることにして、先に進む。 高橋氏は、その他の西洋の読者論をいくつか紹介した後で、次のように書いている。 日本における享受論の伝統や、外山滋比古・前田愛らによる読者論については、ふれる余裕がない。それらはおおむね実体的な読者を前提としてきたし、ナラトロジー以後は、「作者」とともに「読者」をも機能化してしまい、テクストそのものと論者である読者とが裸体で格闘するきらいがないでもない。(中略)「日本における読者論」と言いながら、乾孝氏や熊谷孝氏による読者論の創造的探究については、高橋氏はいっさいふれていない。こうした傾向は、何も高橋氏に限ったことではないが、速やかに訂正されるべきだろう。 また、高橋氏は、「読者」の問題は、「一連の回路の一要素」としておさえておけば良いというが、「読者論」とは そのように取り扱うことができる対象なのだろうか? 文学とはなにかを究明するうえで、「読者」の問題は、いままで書いてきたように、最も中心的な問題である。本来読者論とは、あれこれの「文学理論」の一つなどではないはずだ。真っ当な読者論なしに、文学理論は文学理論にはならないのである。ところが、市販されている文学理論のガイドブックを二三覗いてみると、どれも「読者論」を取り上げてはいるが、結局、数ある文学理論の一つという取り上げ方である。文学作品を読むとき使う道具の一つが、読者論であって、しかもそれは、取り替え可能な道具の一つなのである。だが、むしろ問題なのは、そのような取り扱い方を許す「読者論」そのもののあり方だろう。 では、イーザー理論はどうか。ここからが本論だが、最初に、「読者論」としてよく取り上げられる著作の略年表を参考として掲げておく。(デューイ、ランガー、そして熊谷孝氏の著作は私がつけ加えた。) 一九三四 『経験としての芸術』(ジョン・デューイ/アメリカ) 一九四八 『文学とは何か』(ジャン・ポール・サルトル/フランス) 一九五七 『芸術の諸問題』(スザンヌ・ランガー/アメリカ) 一九六三 『芸術とことば』(熊谷孝/日本) 一九六七 『言語観・文学観と国語教育』(熊谷孝) 一九七〇 『挑発としての文学史』(ハンス・ロベルト・ヤウス/旧西ドイツ) 『S/Z』(ロラン・バルト/フランス) 『文体づくりの国語教育』(熊谷孝) 一九七一 『現代文学にみる日本人の自画像』(熊谷孝) 一九七三 『テキストの快楽』(ロラン・バルト) 『社会−文学−読書』(ナウマン他/旧東ドイツ) 『芸術の論理』(熊谷孝) (この項続く。) |
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